前教皇と現教皇

 『神学ダイジェスト』114号に両教皇様に関する文が掲載されています。とても興味深いので、抜粋してご紹介いたします。
《ベネディクト十六世の謙遜―求められるローマの謙遜―》
―ジョセフ・A.コモンチャク―
・前教皇の辞任は、七百年前の教皇退位以上のことを為した。
・近代の神学は、教皇制をめぐる神秘的な解釈は、教皇をキリストと同一視するあまり、辞任をキリストの裏切りにも等しいと見なしたほどだった。
パウロ六世は辞任を考えたようだが、「自分の十字架から降りるわけにはいかない」ので辞任しなかった。
・同様の言葉は、ヨハネ・パウロ二世にも向けられた―「あなたは十字架から降りることはなさらない」と教皇のかつての秘書は言ったという。
・ベネディクト十六世の行為には重大な意義が潜んでいる。すなわち、辞任が教会論に対する彼の最大の貢献となるかもしれないということである。前教皇は自分の人格を教皇の職務の下に位置づけていたからこそ、教皇職を手放すことができたのであろう。
教皇位をバルタザールのいう「ピラミッドの頂点のような孤立」から教会の内へと取り戻させることにもつながる。
・1870年、教皇在位が教会史上最長だった時に、J.H.ニューマンは、「教皇の在位が二十年に及ぶのはよろしくない。そのような教皇は、神のごとき存在となり、自分に反駁する人間を持たず、事実を知らされず、意図せずして残酷なことをやってしまうからである。」
・ベネディクト十六世は(退位した)ケレスティヌス五世が埋葬されている聖堂に少なくとも二度訪れ、その墓所で祈っている。かつてパウロ六世もそれをしている。
・「ケレスティヌス五世は、自分の経験不足を利用する周囲の人間に欺かれていることを悟った」。パウロ六世は、その時こそケレスティヌス五世の聖性が輝き出たと述べている。
・「ケレスティヌス五世は、責任感から義務として至高の教皇位を引き受け、そしてその同じ責任感から義務としてそれを放棄したのである」。
・おそらくベネディクト十六世もまた周囲の人間に裏切られたと感じ、自分がそれに対処するのは無理だと認めたのであろう。
・ヨゼフ・ラッツィンガー教皇であることを楽しんでいたという印象はない。歴代教皇の中で、彼は行政にあまり興味を示さない二番目の教皇だった。
教皇庁内の低俗な権力闘争...中央集権への回帰...
教皇位を人間的なものにする行為が、喧騒をもたらしているのだが、過去二百五十年間に発展、膨張したペトロの役務という概念を再確認する傾向にあり、そして、教会の未来が聖ペトロ使徒座の後継者の選択にかかっているという印象があらためて広まっている。
・しかし教会は教皇ではないし、教皇は教会ではない。
・ベネディクト十六世の辞任は個人的な謙遜に由来する自己否定の行いである。
・私たちが今ローマで必要としているのは、組織と制度の謙遜と自己否定である。

《見過ごされた愛の教え》
―ジョン・カー―

・前教皇は三本の回勅を著したが、そのうちの二本において貧しく弱い人々に配慮する務めについて明瞭かつ雄弁に教えている。
・前教皇は、「正義は愛の第一の道」(『真理に根差した愛』6項)、「やもめや孤児、囚人、病気の人、またあらゆる種類の困っている人を愛することは、秘跡の奉仕や福音の告知の務めと同じように、教会の本質に属します」(『神は愛』22項)と述べ、それらの義務を教会生活の核に据えている。
・メディアでは、教皇カトリック教会は、性にまつわる変革に対する、現実認識を欠いた反対者として描かれていた。しかしながら、ベネディクト一六世は保守的な教皇だから胎児の抹殺と結婚の再定義に反対するのではない。彼はカトリック教皇だから反対するのである。
・性的な事柄に憑りつかれているのは、カトリック教会とアメリカのテレビのどちらなのだろう?
・ベネディクト一六世は、すべての人の生命と尊厳を守ることを一貫して求めてきた。
・私は米国の政治社会が、カトリック教会と退任するその指導者を、セクシャリティの問題以上の事柄を通して理解しようとしないことを残念に思う。
・政治組織も報道機関も教会組織も、ベネディクト一六世の心の内と、彼の残したものとにある「愛(カリタス)を、もっとよく振り返る必要がある。

 《暗い日々から春へ》
―マルガレット・ヘブルスワイテ―


教皇となったベルゴリオと祖国のイエズス会員との関係は強烈な緊張をはらんでいた。
・ベルゴリオはアルゼンチン管区長時代(1973-79年)(訳注:当時、アルゼンチンは軍事政権が左翼ゲリラの取り締まりを名目に国民を不当逮捕し、監禁や拷問で三万人が死亡・行方不明となった)、進歩的で聖人のごときペドロ・アルペ総長とは異なる路線を歩んでいたからである。
・多くのラテンアメリカイエズス会員のベルゴリオ評は、公にするのが憚れるほどである。
・ベルゴリオがイエズス会に志願したのは、彼の言葉によると、イエズス会が「軍隊用語を用い、服従と規律で発展してきた教会の先頭部隊」だったからである。(2010年発行の『イエズス会士』より)。
・彼が激しい言葉で語る時もある。2004年、ベルゴリオ枢機卿はミサでも雄弁な説教の最後にアルゼンチンの経済危機に触れ、「アルゼンチンの国民は、欺瞞に満ちた戦略も、権力のいかがわしい取引や圧力から生まれた魔法のような解決策も信じない」と述べ、これが当時の大統領を怒らせ、それ以降、大統領は一度だけしか枢機卿と同席しなかった。
・一方、ベルゴリオが共感を示す問題もある。司祭の独身性はその一つで、インタビューで「時に人は恋に落ちるし、司祭であれば自分の司祭職と人生を振り返らざるを得ないでしょう」、「私は、そうした状況の司祭に最初に付き添う立場です」と述べている。
・また「司祭が婚姻の秘跡を受けられる身分となるために、私たちはローマに許可、いわゆる免除(ディスペンション)を願います」とも発言している。
・これは、司祭職を離れる人々の「背信と凡庸な道徳心」を嘆いたパウロ六世や、結婚のための免除に反対したヨハネ・パウロ二世とは対照的だ。
ラテンアメリカの大きな神学運動である解放の神学についても、ベルゴリオは慎重だがバランスがとれている。
・貧しい人々に心を寄せることは、「絶対に逃げてはならない、福音宣教の中心的な必要」であり、「第二バチカン公会議以後の教会の強いメッセージ」であると述べている。
・貧しい人々に奉仕する貧しい人々の教会を宣言したことは、これまでのところフランシスコの教皇職の最も顕著な特徴である。
・しかしながら、実践されていた解放の神学についてはどうだったのだろう。監禁、拷問された二人のイエズス会司祭を、ベルゴリオが貧困地区で働く二人を支援しなかったせいで、軍事政権が彼らを逮捕して拷問するお墨付きを得たのだと二人は考えている。これはベルゴリオにとって悪名高い出来事である。
・「彼にはやはり、我々と苦闘を共にするだけの勇気が欠けていた」。
・インタビューでベルゴリオは、若い時から権威ある立場に置かれて、「多くの過ち」を犯したと語っている。彼が最も自分を責めたのは、「もっと理解に努めなかったこと、偏りがあったこと」である。「私の気性ゆえに、自分の内に最初に生じる反応は、総じて間違っています」と彼は告白する。
・「このことを聴罪司祭と話して、第三者の目で自分の為したことを見た時、私は恐れを感じました」。
・聴き手に強く促されて、ベルゴリオは逃れ隠れる人々を助けた数多くの事例について語っている。
・ある若者の命を救うために、自分の身分証を与えて司祭の格好で出国させている。あるカテキスタのためには仲介に入り、解放を実現した。軍隊付きのチャプレンに頼んで、事実上の軍事独裁政権大統領だったホルヘ・ビデラが出席するミサの司式を代わってもらったこともある。捕えられた二人の神学生の居場所を知るためにデビラと話そうとしたのである。デビラは後に人権蹂躙で告発された。...
・ベルゴリオは時折キリストの受難に沈潜していて陰鬱に見えることがある。だがそれはバランスのとれた霊性の現れてある。
・聖ペトロ大聖堂のバルコニーに姿を現した教皇フランシスコは、神の民と共にあることを愛する聖者の喜びに満ちた微笑を湛えていた。
・2005年のコンクラーベの時、報道官マルコは、ベルゴリオは教皇候補だと言った私に、枢機卿バチカン専制君主制と儀礼ばかりのお役所仕事を馬鹿げていると考えているのだから、そんなことはあり得ないと、笑った。
・当人も「ノー」と叫んだいたかもしれない。しかし今回、教皇職へと召し出された時、ベルゴリオは春の花が咲くようにそれに応えたのだった。

《跪く権威》―ダニエル・オレアリー―
・2001年、ベルゴリオ大司教ブエノスアイレスホスピスで十二人のエイズ患者の足を洗ったというニュースが流れた時、多くの人々の心に新たな希望が生まれた。
・貧しい人々の足を洗うことは、新教皇の強い想いの在り処を示す小さな「秘跡」(いわば秘跡的なもの)なのである。
教皇にとって足を洗う行為はイエスと共にある。
・新教皇は「フランシスコ」という名前を選んだが、聖フランシスコもまた、当時悲惨な境遇にあった重い皮膚病患者の足を洗った。
・イエスが弟子たちの足を洗ったことは、聖職者による荘厳華麗はショーのような典礼―当時も今もそういうところがある―からの明確な転換を提示している。
・貧しい人々の中で生きたイエスも、清貧という遺産を残した聖フランシスコも、スラム街で多くの時間を過ごした教皇フランシスコも、その生活スタイルは徹底して簡素である。
・私たちの新しい教皇は、人間が必要とするわずかなものだけを選んで、豪奢は祭服やリムジンや宮殿の使用を最小限にとどめている。
教皇はそうしたものを「聖職者の慢心」と呼んではっきりと非難している。
・2005年、ベルゴリオ枢機卿は聖木曜日のミサを産院で捧げ、十二人の妊産婦と新生児の足を洗い、口づけた。
・洗足式は神の真の現存を認めることに関わっている。
聖フランシスコは兄弟の足を洗った時、当時の腐敗した教会に聖性が欠如していることを痛切に意識していた。
・そして教皇フランシスコがローマで洗足式を行う時、スキャンダルの打撃を受け分裂した組織の重みを、彼は誰よりも背負っているのである。
・先週、雑誌『タイムズ』は、フランシスコという」名前が強調しているのは、「ローマ・カトリック教会が貧しい人々に仕えるということだけでなく、貧しい人々の教会であるということです」というG・ロウ(米国デューク・ディヴィニティ大学院教授)の言葉を引用した。
・共観福音書から数十年後に書かれたヨハネ福音書に初めて登場する洗足に関する詳しい記述は、パンをさくことの隠れた意味を明らかにする実践的な聖体の神学を意図しているかのように思われる。
フランシスコ会員のR・ロアによると、「ヨハネは洗足を、司祭中心の祭儀ではなく、奉仕と連帯の能動的な典礼としたのである。洗足の典礼が決して秘跡をされなかったのは、驚くべきことだ。イエスご自身が『互いに足を洗い合わなければならない』とはっきり命じている。」
・足にそっと手が触れる瞬間、私はそこにキリストが人となられる受肉を見る。