いやしと再生を願う祈りの集い

今日の環境放射能測定値測定結果:二本松市役所
1.86マイクロシーベルト (5月4日08:50〜11:51)
1.85 マイクロシーベルト (5月4日12:50〜14:50)

 この震災で被災地となった東北に、イエズス会の英(はなふさ)神父様が「いやしと再生を願う祈り」の集いをしてくださるために、鎌倉黙想の家からわざわざおいでくださいました。昨日は岩手県の釜石教会で同様な祈りの集いをなさり、今日は福島市松木町教会と被災地巡礼をされています。司祭の役割を思う時、まさに救いを必要としている人々のために我が身を顧みず、率先して被災地に足を運んでくださる神父様の存在意義は大きいと強く感じました。 

カトリック松木町教会聖堂
集いは「講話―黙想―分かち合い」という内容で進められました。


参加者:福島市二本松市郡山市、原町、仙台、東京・神奈川県から来てくださいました。
神父様のお話を聞いて涙を流しておられる方もありました。









神父様の講話の中で、心に残ったメッセージは、
マタイ26:36-46 「ゲッセマネで祈る」
 「主の祈りはゲッセマネのイエスの祈りが基になって生まれたものではないかと多くの神学者も指摘しているが、そうだと思える。まさに苦しい時に祈る祈りである。現実にはまだそうなっていないので、そうなるようにと祈る祈りである。」

 確かに私も苦しい時には「主の祈り」にしがみつくように祈り、まさに苦しい時に必要な祈りが込められていることを実感しています。
マタイ27:32-44 「十字架につけられる」
 「キレネのシモンは『イエスの十字架を無理に担がされた』。それはまさに原発事故を無理に背負わされた福島のことでもある。しかし、十字架を担ぐのは12使徒の役割のはずだったにもかかわらず、キレネのシオモンが選ばれ無理に十字架を担がされたことによって後にイエスの弟子になった。そして、皆から羨ましがられることとなった。」

 受け入れたくはない苦しみをやがて受け入れた時、困難なことではあってももはや苦しみではなくなり別の世界が開けてきます。希望すら見えてきます。
マタイ27:45-56 「イエスの死」
 「『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と叫ぶほどにイエスどん底の苦しみを味わわれた。愛する御父からも見捨てられたという思いは、絶望の思いである。しかしそれでも御父から離れようとはなさらなかったイエスは復活する。絶望の思いが救いとなった。」

 子どもが「お母さんなんか大嫌いだ!」と叫ぶ時、それは本当に嫌いなのではなく、お母さんを強く求めている言葉であるように、イエス様のこの言葉ももはや御父以外に寄りすがる方はないという究極の叫びだったのだと思います、あなたが救ってくださるのでなければ、他に一体だれが救えるのですか!という...。 
ヨハネ20:11-23 「イエスマグダラのマリアに現れる」
 「『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません』或いは、『どこに泊まっておられるのですか』(ヨハネ1:38)と弟子たちが尋ねるなど、主がどこにおられるのか分からない時、人は迷い苦しむ。墓という闇を見つめているうちはイエスが見えない。『振り向いて』光の方に顔を向けた時にイエスだと分かって安心する。」
 「信仰は希望である。信仰の核心は復活を信じることにある。」 

 自分にとってパニックになるほどの感情に揺さぶられると、私たちはその自分の思いだけに囚われてしまいます。そういう時に目を上げ、光の方をみることができるように導いてください!自分の中に救いを見出すことはできませんから。