『小さい者とともに』ジャン・バニエ(7)

『ラルシュのこころ』 ―小さい者とともに、神に生かされる日々―
                                 ジャン・バニエ(Jean Vanier)
【第五章 教会に根を降ろす求道性】
 道は長いです。
 ハンディで苦しんでいる人が、自分自身の決断によってラルシュにやって来るのはまれなことです。選択の余地があまりありません。コミュニティーの生活がハンディを持つ人の深い要求に応えてくれるので、時が経つにつれ、この生活を少しずつ受け入れていきます。私たちもそのように望んでいます。ある人たちは、たとえばミシュエルのように、ある程度ラルシュの共なる生活を経た上で、ラルシュを選ぶことが出来るようになりました。彼はある時、「ぼくを、ラルシュ・ミシェルと呼んでもいいよ。ラルシュがぼくに命を与えてくれたから」と言いました。
 ある程度の数のアシスタントが、ハンディを持つ人と契りを結び、生活して行くよう神から呼ばれ、ラルシュにやってきます。別の人たちは、ある人は長く、ある人は短く、一つの体験を生き、自分の人生の意味を見出そうとやってきます。彼らは少しずつ、優しさの世界、信仰の世界を福音の中で見出していきます。心が感動するのです。彼らは変えられて、自分の道を他で続けようとラルシュを去ります。ラルシュで生きる召命がある人たちは、ハンディを持つ人の中に命の泉、優しさの宝を見出します。イエス神の国について、畑に隠された宝に似ていると言われました。
 ラルシュは全面的に教会に連なる者でありたいのです。私たちのコミュニティーに司祭や霊的指導のため、ともに歩む人がいるのはそのしるしです。私たちのコミュニティーにおいて、いかに簡単にイエスの約束を忘れてしまうことでしょうか。毎日しなければならないことに心を奪われ、神の現存のしるしであるハンディを持つ人の苦しみを、いとも簡単に見失ってしまうものです。
 ラルシュの求道性は、その人の価値観とか信仰がどのようなものであろうと、あるがままにその人を尊敬します。このような愛でありたいのです。
 ラルシュが、メンバーの一人一人にとって、人間的、霊的に必要なことが何であるかと心を向けるよう努めてきた結果、神による一致の計画の中に徐々に導かれて行きました。イエスが渇き望まれることは、御父とイエスが一つであるように、全ての人が一つであることでした。圧力や、憎しみ、戦争などから生まれる分離は、神の心を傷つけます。ハンディで苦しんでいる人は、迎え入れ、和解、ゆるしといった一致への道を私たちに示してくれます。
【おわりに】
 イエスの公生活の間、マリアはほとんど現れてきません。イエスの傍らでまず場を占めたのは弟子たちでした。ナザレや十字架ではそうではありませんでした。心によってイエスの近くにいるのは、マリアです。マリアは愛に満ち、沈黙し、限りなく信頼する女性です。イエスとともに「一つになる親しい交わり」と優しさに生きた人です。ラルシュで私たちは、ナザレのこの生活に召されています。破壊され苦しんでいる世界にあって愛のしるしとなることです。また、私たちは苦しみ、投げ捨てられたイエスのために、マリアの共感の神秘に与るよう呼びかけられています。十字架につけられ、苦しみ、投げ捨てられ、いつになっても癒されることのない人たちのそばにいるために。