『蛙の祈り』その4

 《活字にならなかった経文》 
 鉄眼(てつげん)は禅の学僧であった。彼は一念発起、一大事業を思い立った。それまでは中国語でしか手に入らなかった経文を日本語で7千部印刷しようという壮大な計画であった。
 彼は日本国中を駆け巡り、資金を集めた。富裕が人々が大金をポンと寄付してくれることもまれではなかったが、寄付の大半は農夫、庶民からの小銭だった。鉄眼は大金にも小銭にも額にかかわりなく、寄進者には同様の感謝を表した。
 十年後、事業遂行に十分なお金が集まった。ちょうどそのころ、宇治川が氾濫し、数千人が家を失い、食べるにも事欠くありさまとなった。鉄眼は長年温めてきた事業のための資金を困窮する人々のために投げ出した。
 そしてまた一から資金集めを始めた。必要な金額に達するまで、また数年を要した。こんどは全国に伝染病がまんえんした。鉄眼は災難に苦しむ人を救済するため、このお金を投入した。
 三度目の募金活動が20年を向かえ、日本人が日本語の経文を手にするという夢が現実となった。
 経文の邦訳第一版を印刷した台木は、京都の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院に保存されている。日本では子々孫々つぎのように言い伝えられている。鉄眼は経文の邦訳を計3回出版した。はじめの2回は幻の出版となったが、その出来具合は、3度目のよりはるかに優れていたと。

                (『蛙の祈り』 アントニー・デ・メロ著 裏辻洋二訳 女子パウロ会 1990年)