『蛙の祈り」その2

 《この中の一人がメシアだ》 
 ヒマラヤ山中でグルー(導師)が瞑想に明け暮れていた。あるときふと目を開くと、眼前に予期せぬ客人が座っていた。客は広くその名を知られた僧院の大修道院長であった。
 「何をお求めかな?」とグルーは尋ねた。
 大修道院長は、「悲しいことでありますが、実は...」と詳細を語り始めた。
 かつてその修道院は西ヨーロッパに広く知られ、親しまれた存在であった。年若い志願者であふれ、教会堂は修道僧の賛美の歌でどよめいていた。しかし困難な時代が僧院を飲み込んだ。人々は精神涵養の場を必要としなくなり、もはや僧院に群がるのは過去のこととなった。年若い志願者の流れは干上がってしまい、教会堂は静まり返った。一握りの修道僧が打ち沈んだ気分で、自らの勤めに取り組んでいた。
 大修道院長が知りたいと願ったのは、つぎのことだった。
 「僧院がこのような有様に変じたについては、私どもの何かの罪が原因でありましょうか。」
 「さよう、知らずにいるという罪ですな。」
 「して、それはいかような罪なのでございましょうか。」
 「あなた方のなかの一人はメシアでいらっしゃる。しかも姿を変えておられる。あなた方はそのこと知らずにいる。」グルーはそう言い終えると目を閉じて、瞑想にもどった。
 僧院に帰る道すがら、大修道院長はつらつら思いめぐらした。メシアが来臨された、われわれの僧院に現に今、おられる。そう思うたびに、彼の心臓は早鐘を打つのだった。なぜ今日まで私はメシアを認められずにきたのか。いったいそれはだれだ。台所の修道士か、祭礼係の修道士か、会計担当の、それとも副院長の...。いや、そうではあるまい。だれも彼も欠点、弱点にまみれている。いや、待てよ。グルーは「姿を変えて」と言われた。欠点、弱点はむしろ、姿を変えるための手だてかもしれん。ウム、僧院のだれも彼もに欠点がある。であれば、そのうちの一人がメシアであっても不思議はない。
 僧院に戻ると彼は修道僧を一堂に集め、思いめぐらし思いいたったところを語った。一同は信じられぬという表情で互いに見交わした。メシアが? ここに? そうだとしたら、それはだれなのか。
 メシアは姿を変えてここにおられるなら、この人物こそメシアだと特定できそうには思えない。これだけは確かだ。そこで彼らは、だれであろうと出会う相手に尊敬と思いやりをもって対応するように心がけ始めた。彼らは互いに接触するにあたり、自分に言い聞かせるのだった。
 「おまえは知らないのだ。この人こそメシアかもしれないのだぞ。」
 このようにして過ごすうちに、僧院の雰囲気は活気にあふれ、喜びに満ちたものとなった。やがて数十人の志願者が入会を求めてきた。もう一度、教会堂には愛するという気構えに燃え立つ修道僧が歌う賛美歌の響きが喜ばしく響くようになった。
 心が盲目であれば、目が見えたって何の役にも立ちはしない。

                (『蛙の祈り』 アントニー・デ・メロ著 裏辻洋二訳 女子パウロ会 1990年)