観想への道(リカルドゥスの愛)3

3 観想:愛による認識の完成 
 人間と神との関係においては、自己自身のあり方を深く知ることが大切である。この自己認識をはっきりとできることがより良い黙想をもたらし、観想へと進むことができる要素となる。観想者はその全てを愛によって創造した神の前で自分を見ることにより、自分の本質を見抜く。
 観想は、想像力、理性、知性が互いにどのように助け合うか、6種類に分けられる。
第一種:想像力のみ。感じることができるものを対象とする。
第二種:想像力と理性。感じる事ができるものの秩序、根拠、目的を対象とする。
第三種:理性と想像力。感じることができないものを対象とする。
第四種:理性と知性。人間精神を対象とする。
第五種:知性と理性。神の本質一般を対象とする。
第六種:知性のみ。三位一体を対象とする。
 第五種と第六種においては、恩寵が与えれるならば、観想者は脱我extasisへと導かれる。脱我においては記憶、感覚的認識、そして理性的認識そのものが奪い取られる。その時、彼は愛の内にある。脱我になる前、観想者の人格的同一性は、愛する者へと向かう愛の力に依存している。
 脱我は、愛の力の大きさに耐えることができなくなり、溢れ出ていき、しかも認識が行くことのできないところへ愛は行こうとする。この人間の神へ向けての自己超越を導くのは愛のみである。
 リカルドゥスは、脱我の中で人間が愛の内に神へと奪い取られるあり方を「神の中へと超えていくtransit in Deum」と表現する。これは神と人間との愛する者同士を合一する力である愛によってのみ引き起こされる。この合一unioにおいて、人間は自らが愛する者を観るのである。脱我の観想は、人間の愛による神自身との一致の経験である。愛する者の愛と認識はここで一つになる。