観想への道(リカルドゥスの愛)2

2 黙想:愛による精神の上昇 
 リカルドゥスは愛である神へと導かれる黙想を、神への霊的な上昇として描く。その霊的上昇において愛と認識は互いに補い合う関係となる。黙想は、愛が目指しているものをより深く知ろうとする働きであり、全人格的な営みである。
 だから、黙想においては愛のあり方を反省してみることが大事になってくる。とは言え、それは理性の力によってできることではなく、まず神ご自身の愛を知ることである。その神の愛を知る方法は「聖書」である。聖書の読解によってはじめて、神の愛を知ることが可能になる。
 リカルドゥスは、聖書が神的な現実、すなわち神の愛による人間の救いを示していることを読み解かなければならないと教える。そして、キリストによる救いの真理を示している新約聖書よりも、救いを暗示的に示す旧約聖書に注目する。これを誤って読解しないためには、神への愛をもって読むことである。
 リカルドゥスは、フーゴーに従い聖書の4つの読解法をあげる。
1.文字通りの解釈・歴史的な意味を求める読み方(ヒストリアhistoria)
2.比喩的な意味を求める読み方(アレゴリアallegoria)
3.倫理的な意味を求める読み方(トロポロギアtropologia)
4.終末的(世の終わり)の意味を求める読み方(アナゴギアanagogia)
 ヤコブの家族の物語は倫理的な読み方である。倫理的とは、神に愛されていることを知った人間が、神の意志にどのように従えばいいのかを示す。黙想は、「神の愛」と「神を知りたいという思い」とが深く関わりあって、完成へと向かっていく。
 黙想の過程で、人は現実に直面する。ダンとナフタリの誕生の後、今度はレアの侍女ジルパがガドとアセルを産むように、二つの徳が神への愛のもと形成される。すなわち「節制」の徳(身体的快楽にブレーキをかける)と「忍耐」の徳(身体的苦しみから逃げない)を得て、感情が整えられる。
 さらに、愛が堅固なものとなるように、レア自身がイサカル、ゼフルン、ディナを産むように、「真の喜び」、「悪徳への憎しみ」、「真の羞恥」が徳として与えられる。人間は、神への愛が深まると悪徳をきらうようになる。しかしその悪徳から完全には離れられない不完全な自分を恥じ入るのである。この段階で感情における徳の形成は完成し、自己認識ができるようになる。
 そしてラケルヤコブの12番目の子であるヨセフを産むように、「識別力」が与えられる。これによって神へ向かって秩序づけられ、徳のあり方を保つことができようになる。