”神の母聖マリア”

明けましておめでとうございます!そして、 「神の母聖マリア」の祭日おめでとうございます!
「神の母」の祭日にあたって、福者ジョン・ヘンリー・ニューマンのマリアについての興味深く、また洞察にすぐれた見解をご紹介します。旧約時代はアブラハムが信仰の父でしたが、新約時代において信仰の模範は聖マリアですから、私たちにとってマリア様の信仰の姿をつぶさに見ていくことが大事なことになっていきます。
《マリアは「救い主の母」》
マリアの連祷でマリアに与えられた称号の一つに「救い主の母」がありますが、それを理解する前にまず次のことを明らかにしておかなければなりません。
 主はこの世に来られる前にはメシアすなわちキリストという特別な名称で知られていました。従って、ユダヤ人にはそのように知られていました。しかし、実際にイエスがこの世に来られると、三つの名称で呼ばれるようになりました。「神の子」「人の子」「救い主」です。神の子はイエスの神性を表したもの、人の子はイエスの人性を表したもの、そして救い主はイエス自身の任務を表したものです。このように天使は、マリアのところに現れたときは彼を神の子と呼び、ヨセフのところに現れたときは彼を救い主という意味でイエスと呼びました。天使は羊飼いたちのところに現れたときも彼を救い主と呼んでいます。一方イエス自身はご自分を特別に人の子と称しました。
 彼を救い主と呼んだのは天使だけでなく、二人の偉大な使徒、聖ペトロと聖パウロも説教の中でそのように呼んでいます。聖ペトロは彼を「導き手、救い主」(訳者注、使徒5:31参照)と言い、聖パウロは彼を「救い主イエス」(訳者注、使徒13:23参照)と言っています。天使も使徒たちもなぜ彼をこう呼んだのでしょうか――それは、主がわたしたちを悪霊の力や犯した罪のみじめさから救って下さったからです。天使はヨセフに言います。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(訳者注:マタイ1:21)そして聖ペトロは、「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(訳者注:使徒5:31)と言いました。イエスはご自分のことを「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(訳者注:ルカ19:10)と言いました。
 では、このことがマリアについての私たちの考えにどのように影響しているかを考えてみましょう。敵の力から奴隷を救い出すことは矛盾を伴います。わたしたちの主は救い主なので戦士でした。主は捕らわれ人を戦いなしに救い出すことはできませんでした。では、戦争を特に憎んだのは誰なのでしょうか。異教徒の詩人が答えています。「母親たちは戦争を憎んだ」と。母親たちこそは戦争の最中に特に苦しむ人たちです。母親たちは子どもたちが得た栄誉を讃えるかも知れません。しかし、そのような栄誉は、兵士の母親が感じている長く続く苦痛、不安、気がかり、陰鬱、深い悲しみのわずかさえ拭い去ることはできないのです。これこそがまさにマリアが体験していたものでした。30年間というもの、マリアは息子がずっとそばにいてくれたので恵まれていました。――いやむしろ、マリアは彼を従わせていました。ところが、戦いが彼を必要としたとき、すなわち、戦いのために人々の前に彼が登場したとき、その時はやってきたのです。彼はもはや単なるマリアの息子ではなく、実に人類の救い主として登場してきたのです。ですから、やがて彼はマリアから離れていきました。彼女は、兵士の母であるとはどういうことかをそのとき知ったのです。彼は彼女を置き去りにしました。もはや母は息子に会うことができませんでした。彼女は息子に近づこうとしましたが、無駄でした。息子は何年間も母に守られて暮らし、その頃は、少なくとも母の住居で暮らしていました。――しかし、今は、彼自身のことばによれば、「人の子には枕する所もない。」(訳者注:マタイ8:20,ルカ9:58)それから数年後には、母は息子の逮捕、裁判、十字架刑の執行を聞くことになるのです。ようやく母は息子のそばに近づくことができました。――いつ、どこで?――カルバリの丘へ向かう道で、十字架上で。そして、ついに母は再び息子を自分の腕の中に抱きしめることができたのです。そうです、息絶えた彼のからだを。彼が死から復活したのは真実です。しかし、そのことによっても母は彼を取り戻すことはできなかったのです。なぜなら彼は天に上げられ、母はすぐに彼のあとを追うことはできなかったからです。否むしろ、母は――彼の最も愛する使徒ヨハネのお世話を受けて、何年間もこの世に留まったのでした。ところで、彼女自身の息子と神の子の主とを比べた場合、人の中で互角に最も聖なるものと言えるものは何だったのでしょうか。おお、聖マリア、救い主の母、この黙想の中で、わたしたちは突然、喜びの神秘から悲しみの神秘へ、天使ガブリエルのお告げから7つの悲しみの御母へと辿ることになりました。そして、このことは御母についてする一連の黙想の次のステップとなっていきます。
(柳沼訳)