『障害は恵みか?』

 「カトリック新聞」はカトリックにとっての唯一の新聞ですが、購読者が少なく存続の危機にあるそうです。実際になくなってしまったら、他の教会の様子や活動を知る手段がなくなってしまいますので、皆さんが関心をもって下さることを私も願っております。
 さて、そのカトリック新聞の12月12日号に興味深い記事が載っていました。皆さんはどのようにお考えになりますか?
「障がいは恵みか?」東京でシンポジウム
障害は神が与えた恵みなのか―この問いに真正面から取り組もうと、カトリック日本聖公会日本基督教団の関係者3人が呼び掛け人となって、30人が集まり、それぞれが日々の思いを率直に語り合った。
橋本さん(東京・ロゴス点字図書館理事で全盲カトリック信者)
「私を全盲にしたのは、紛れもなく神の意思。この神の意思に、私が応諾したことで、障害は、聖なる障害に”聖変化”した。これは、障害の苦難をイエスの十字架の苦難に重ね合わせることに通じる。障害が恵みでなければ、救いはどこにあるのか。」
阿佐牧師(父親が全盲日本基督教団の牧師。)
「事故や障害そのものに、神のご計画はなく、神の恵みではない。信仰の恵みとは、悲劇や苦しみのただ中にある私たちと共に、キリストがいてくださり、神がキリストによって私たちを救い、支え、助けてくれること。」
堀越さん(日本聖公会の信徒で全盲立教大学講師)
「障害は神が与えたものかどうかはよく分からないが、神は人間を、親のような心情をもって見つめており、神は人間に、幸せになる力を与えている。不慮の事故や過失、人々の悪意さえ、人間が幸せへの原動力にした時、天にも地にも大いなる喜びがあるのだと思う。つまり、『障害は恵みか』と問うより、『障害を恵みとするか』と問うことの方が意味がある。」
金澤さん(カトリック身体障害者の会「心の灯」会長)
「イエス様がいつ『障害は恵みだ』と言ったのか。聖書のどこに書いてあるのか。イエス様のおかげで病気が癒され、健康になったら、それこそが恵みだと思います。障害が恵みなら、健康になった途端に、そのお恵みが無くなるということなのでしょうか。」
全盲の参加者
「自分の心を掘り下げてみると、僕が一番求めているのは、(視力よりも)目が見えなくなったことも含めた、生きる意味です。」