『感情と霊的生活』2

 『神学ダイジェスト』2010年冬号No.109(pp.90-102)より抜粋 −つづきー
【感情と衝動の区別】
・心理学は感情が倫理的に中立であって良いものでも悪いものでもないという事実を支持している。しかし多くの人は、いまだに感情にも「毒麦と麦」があるかのように話す。
・この問題は一つには、感情そのものと、感情に従おうとする衝動とが明確に区別されていないことに起因する。
・たとえ意に反するものでも、感情そのものは良いものであり中立なのだ。感情は受け入れられなければならない。
・だが、行為は倫理的に中立ではないので、慎重に考慮する必要がある。
・感情は神からの贈り物だ。行為は私の責任だ。
・問題は、感情をメッセンジャーとしてではなく、導き手としてしまうときに生じる。
・単なるメッセンジャーとしての感情であれば、すべてを受け入れて、吟味することが可能である。
【感情の起こり】
・良い霊からも悪い霊からも感情が生じる。
・ある人が神から離れ、死に至る罪を重ねる時、神は「良心のとげを目覚めさせ、呵責を感じさせる」(霊操314)この感情は、選んだ道が正しい道ではないことを当人に告げているのである。
・感情は被造物である私たちの状態の一部であり、創造主以外のなにかにそれが由来しているとは考えにくい。もし、感情がメッセンジャー、つまり神が人間とコミュニケーションするために選んだ自然な方法であるならば、心地よかろうが不快だろうが、感情はすべて神の心配りの現れなのだ。
・不快な感情のおかげで、何らかの手当てを必要とするものへと注意が向かうのならば、その感情が悪い霊によって起こるなどということは到底あり得ない。
・もし心の自然な状態がすべて創造主から来るならば、私たちが進むべき方向は慎重に識別されなければならない。
・怒りの感情は神からの贈り物であって、自分に深く巣食う罪深さへの道のりを知らせてくれているのかも知れないが、しかし怒鳴ったり叩いたりする衝動は、神が私に望んでいる方向ではないはずだ。
【識別にとっての感情の意義】
メッセンジャーとしての感情の意義には軽重がある。
・神の意志を一心に知ろうとしている人は、神から与えられるすべての兆候に怠りなく注意を払おうとするだろう。
・放蕩息子が父の家に帰ろうと決意したのは、正しい道の選択であったが、その動機は完全に身勝手なものだと見ることもできよう。彼はただ食べたかっただけだと。完全に非宗教的な決断でありながら、神の計画に基づいて人間性を高める決断もあれば、それとは逆に命を損なう方向に向かう決断もある。
・神の語りかけは、身体的、心理的、霊的のレベルでなされる。そして神を信じる人びとにとって、与えられたしるしに注意を払うということは、そのしるしをもたらした人物に注意を払うということである。
【神の導き】
・もし当人が注意を向けるならば、心のどこか奥深くにあるなんらかの不安に気づくことができるのではないだろうか。神が私たちを死に至る道に放っておくはずはなく、その道には賛成していないということを、神は必ずや何らかの仕方で示している。
・神の警告に気づくことは、有益な揺さぶりなのだ。
・どのようなレベルの感情も、その起こりは、創造の業をなした神にある。従って私たちはあらゆる感情に注意を払うべきだし、そのようにして、神の自然な導きに耳を傾けることができるのだ。