聖書週間

 今日は「王であるキリスト」、集会祭儀。参加者女性9名、男性2名。
 今週から「聖書週間」です。教皇ベネディクト十六世が『啓示憲章』発布40周年記念国際会議参加者との謁見の際に行なった挨拶の中の言葉が、この聖書週間の機にふさわしいと思われますので、ここに改めてその抜粋をご紹介したいと思います。
 教会は、聖書の中にキリストが生きておられることをよく知っています。それゆえにこそ、『啓示憲章』が述べているように、教会は、主のからだを敬うのと同じように、常に聖書を敬ってきました(『啓示憲章』21参照)。だから、この公会議文書が引用しているように、聖ヒエロニモは、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」といったのです(『啓示憲章』25参照)。
 教会と神のことばは、分かちがたく結ばれています。教会は神のことばによって生かされています。また、神のことばは、教会によって、教会の教えを通して、また教会生活全体の中に響きわたります(『啓示憲章』8参照)。それゆえ使徒ペトロは、聖書に述べられたいかなる預言も、個人の解釈に委ねてはならないといういましめを、わたしたちに与えています。「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、けっして人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からのことばを語ったものだからです」(二ペトロ1・20)。
 わたしたちは、『啓示憲章』の影響のおかげで、近年、神のことばの根本的な重要性があらためて深く再評価されるようになったことを、神に感謝したいと思います。そこから、教会生活の刷新が行われてきました。この刷新は、特に説教、信仰教育、神学と霊性において、さらにはエキュメニカルな対話においても行われています。教会はたえず刷新され、若返らなければなりません。神のことばは、老いることも衰えることもありません。だから、神のことばは、教会を若返らせるための最高の手段となります。まことに、神のことばこそが、聖霊によって、常にわたしたちを真理全体へと導くのです(ヨハネ16・13参照)。
 これに関連して、わたしは何よりも「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」という古代の伝統を思い起こし、また勧めたいと思います。祈りとともに聖書を熱心に読むことにより、内的な対話が生まれます。この対話の中で、聖書を読む人は神が語ることばを聞きます。また、その人は、祈りのうちに、開かれた信頼の心をもって、神に答えます(『啓示憲章』25参照)。こうした実践を効果的なしかたで推進するなら、わたしは、それが教会に新しい霊的な春をもたらすことを確信しています。それゆえ、聖書への奉仕職において、霊的読書に重点を置くことをますます奨励しなければなりません。またそのために、新たな方法も用いることができます。その際、新しい方法は、注意深く検討され、時代に合ったものとしなければなりません。神のことばは、わたしたちの足の灯(ともしび)であり、わたしたちの歩みを照らす光であることを、けっして忘れてはなりません(詩編119・105参照)。

(全文お読みになりたい方はこちらをどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message29.htm