私のイエス3「命の喜びを教えてくれたイエス」

 今日はミサの予定だったが、神父様が風邪で体調を崩され集会祭儀となった。参加者、女性13名、男性1名(うち未信者の方女性3名、男性1名。お父さまの命日なのでお祈りをお願いする予定で郡山からわざわざ来て下さったのだが、申し訳なかった。でも、もう一度教会に足を運ぶ機会ができたとも言える。)
 集会祭儀の後、「私のイエス」について、9月12日に菊地さんのお話をお伺いしたが、実はあの話には伏線があるということで、さらにお話して下さった。
《菊地さん(40代女性)のイエス様との出会い第二弾》
 1989年の10月初めに突然お父さんが倒れた。すでに心肺停止の状態だった。53歳の若さだった。あまりにも突然の出来事に彼女はこの現実が受け入れられず、苦しんでいた。2ヶ月経った12月になってもやはり受け入れられず、この現実から逃げ出したい気持ちで一杯だった。自分の命も終われば楽になりもう苦しまなくて済む、という思いが彼女の頭によぎるようになっていた。それほどにこの現実は彼女にとって耐え切れない重荷となってのしかかっていた。実際に死ぬ手立てを講じることはなかったが、死への逃避の気持ちは強かった。そんなある日、一通の手紙が彼女の元に届いた。中国に旅行した時の中国人の添乗員からのクリスマスと新年のお祝いカードだった。
 彼女は実はその年の5月末から6月4日まで中国旅行に出かけていた。1989年6月4日、この日が何の日かお分かりだろうか。そう、「天安門事件」が勃発した日である。日本人旅行者には何も情報が入らなかったが、中国人同士には口コミで情報が伝わっていた。旅行も充分楽しんだ最終日、もう今日は日本へ帰るというその日の朝、銃声が響いた。軍が発砲したのだ。彼女らは日本の家族が心配するといけないので、電話をしようとしたが通じなかった。バスの運転手は時間になっても現れず、不安は募る。運転手さんは遅れてやってきた。彼は、昨日のうちにすでに情報を入手していて、バスが狙われる可能性があると判断して、バスを空港の近くに隠し、自分は自宅に帰らず、その近くに泊まっていたのだ。日本人旅行者を無事に空港へ送り届けるための英断だった。
 運転手さんは自宅が空港の近くにあるので、日本人旅行者を空港まで来ることができるが、中国人の添乗員さんは空港まで来ると自宅へ帰れなくなる可能性があるので、ホテルで旅行者とは別れることにしたが、旅行中ずっと親身になってお世話して下さった添乗員さんだけに皆、銃声が響く中国に残る添乗員さんを思って涙、涙の別れとなった。
 運転手さんのお陰で無事日本行きの飛行機に乗り込むことができて一安心した。ところが、出発の時間を過ぎても飛行機は離陸する気配がなかった。いよいよ心配になってきた。死という文字も頭をよぎった。なす術もなく待つこと2時間半、飛行機は離陸した。そして、無事日本へ帰ることができた。
 彼女は、帰国するやいなや、新聞報道で伝えられる天安門事件のニュースをくまなく読んだ。あの添乗員さんは無事だろうか。テレビの報道にも釘付けになって一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。そして、彼女はあの添乗員さんに手紙を書いた。しかし、返事はこなかった。
 お父さんが突然植物状態になってしまったことで、12月、彼女の苦しみはピークに達していた。苦しみから逃れる術もなく死に憧れる思いが募っていた。そんなある日、あの添乗員さんからカードが届いたのだ!ああ、生きていた!!あの戦場と化した中国であの添乗員さんは生きていた!何という喜び!何か目には見えない方に感謝したい気持ちで一杯だった。カードには何も特別なことが書いてある訳ではなかった。また、彼女のこのような状況をその添乗員さんが知るはずもなかった。他の人からみたら何の変哲もないクリスマスカードに過ぎなかった。しかし、彼女にとっては全く違っていた。生きているという命の尊さとその喜びを教えてくれる神様からのメッセージだった。人が生きていたということがこんなに嬉しいのなら、自分の命も同じではないか。自分の命ももっと慈しむべきではないか、彼女はそう思った。カードが届いた日は12月25日だった。
 これが彼女が神様を意識した最初だった。一年後彼女は教会の門を叩いた。