私のイエス2「マリア様のとりなし」

 今日は集会祭儀。参加者女性6名、男性1名。風邪が流行っている。他の病気で苦しんでおられる方もたくさんおられる。神様がそういう方々の一人一人に心を留め、慰めと必要な助けをお与え下さるように。
 老人介護施設におられる安田さん(97歳)もこの頃は寝ておられることが多く、起こすのも申し訳ないので、黙って引き返すことが多くなった。先日も寝ておられるので、帰ろうかと思ったところ目覚められたので、少しお話をした。顔色が良くないので額に手を当てると熱があった。介護士さんを呼び手当てをお願いした。安田さんはご聖体を頂くために祈るということが辛くなってきた。実際、病気の時こそ祈りが必要にも関わらず、病人本人にとっては祈るという行為が辛いのだ。だから、人一倍気を遣われる安田さんは私にも来なくていいということを遠まわしにおっしゃった。つくづくと自分の無力さを思った。他人の私では、訪問すること自体が安田さんに気を遣わせてしまうことになる。司祭であれば、また話は別だと思うのだが、神父様方はお忙しい...。祈るしかない。

 集会祭儀のあと、殉教者や潜伏キリシタンの信仰の話で盛り上がった。さらに、どのようにしてイエズス様と出会ったのという分かち合いを花房さんがしてくれた。
 「娘が高校生の頃から、誰かが私を見ているような気がしてならない。見られているので、陰で悪いこともできない。私はその方につかまりという思いをしているのだが、その方に逃げられてしまうようで不安を感じる。娘の高校は自分の母校でもあり、その学校のシスターに相談した。すると、シスターは、シスターでもそうですよ、とのことだった。私は具体的なことは何も求めていなかったが、ただその誰であるかは分からないその方に逃げていってほしくはないという思いだけは強くあった。
 洗礼を受けるための勉強会が3年コースでシスターの指導の下始まった。ところが、どうしても私はその勉強会についていけない。ついにその勉強会は途中で断念せざるを得なくなった。他の方々は優秀なので問題なくその勉強会を続けた。しかし、そのグループの中で私が他の方々よりも一年も早く洗礼を受けることになった。洗礼の恵みは私にとって嬉しくて嬉しくて、勉強を教えて下さったあのシスターにも連絡した。するとシスターは心から喜んで下さった。
 私は実は、十字架のイエズス様がどうしてもこわいと感じて近づけなかった。しかし、マリア様は大好きだった。そこで洗礼を受ける時に、私はマリア様には祈れるのですが、十字架はこわい気がしてダメなんです、と相談したところユリアン神父様は、それでも大丈夫です。マリア様がとりなしてくださいますから、とおっしゃって下さり安心して洗礼を受けることになった。
 やがてその神父様の言葉通りになり、今、聖体奉仕者となった。ご聖櫃を開けご聖体を手にする時、いつも涙が出そうになる。」