ニューマン、他者への態度

《他者への態度についてのニューマンの見解》
 人間が集まれば問題が起こります。ニューマンは共同体内または外部の人に対して、オラトリオ会員はどのような態度を取るべきかを語っていますので、彼の霊性を知る上でも、また、私たち自身の参考にするという意味でも、ちょっと耳を傾けてみましょうか。
 「教会の中には分裂と妬み心がある。たとえば、同権にはない人は、同権の人々には疑いと妬みの目を向ける。こうした危険に陥らないように修道会には修練がある。そこでは、まず最初に妬み心がなくなるまで厳しい生活を送る。だが、最初彼らは不快及び満足の区別が分かっている。寒さ、空腹、不眠、労働、沈黙、長上への絶対的服従といった苦行や微妙な屈辱感に対して、楽しいことを想像してみてもごまかし切れない。やがて彼らは自由を諦め、奴隷となる。修道会ではこうした方法が妬み心を取り除くための方法として採用されるのである。
 オラトリオ会には身体的苦行も個人的苦行もない。人に共感、同情、賞賛、尊敬などを覚えさせるように導くものも何もない。
 この両極端の方法は、よほど自分をガードしていなければ、どちらも妬み心を引き起こすことになる。
 さらに、我々が教区司祭たちよりもより良い教育がなされていると思われるとすればそれは神のみ摂理によるものだが、このことが他人からの妬みと隔たりをもたらす原因にもなる。
 イギリスの大学の学寮の様子を思い出してみよう。ある学生が普通よりも高い学習能力を持っている状況においては、他の学生にある種の嫌悪感を覚えさせる。優れた教育を受けることによって、本人が警戒していない限り、傲慢さ、或いはそれに類似したものを生み出すのは間違いないということを覚えておかなければならない。良い趣味を持っている人は悪趣味の人を嫌う。そしてそうした思いは、本人にその意図がないとしても、他人には不快感を与えることになる。そのような不愉快さを生み出す要因となるものに対して、細心の注意を払うことを怠ることから傲慢、軽薄、批判などの精神が生じてくる。そして、それは誰にでも当てはまることである。これは悪魔の仕業ともいえるものであり、極力これを避けるように目覚めて注意していなければならない。
 教会内の分裂については、それらを少しでも減少させ、撲滅させ、一致へと努力することが皆の使命である。もし、これを怠るなら、その人自身が怨恨の対象となる。こうした問題を克服するための力が私たちには与えられている。だから、一致のために最善を尽くすことが求められる。
 批判的精神、これに注意しなければならない。欠点を発見することに一生懸命になってはいけない。むしろ人をよく言うようにしなければならない。謙遜であるだけでなく、その謙遜な姿を見て人々が心を動かされるようであることが望ましい。また、自分をあまり出さないように注意しなければならない。人前では必要以上に話さないこと。公の場以外で論争することを避けること。議論に自信がある場合でさえ、強い意見を言うことは避けることである。
 抜け目なさ、軽薄、横柄という不愉快さについて、それらにうんざりし、それらを表すことは悪趣味であることに気づくまで、そして道徳的に不適当なことを言わないように、黙想すること。
 節度ある態度、まじめさ、思いやり、明るさ、平穏、これらがオラトリオ会員にふさわしい気質である。
 オラトリオ会の良い評判とか栄誉は実は個人にかかっているのである。誰でも、評判を落とすことをする可能性はある。聖フィリポを敬い、彼の甘美さと優しさを愛し、この共同体に忠誠を尽くし、オラトリオ会の名前が私たちの間でも後世の人々にとっても祝福されるように希望し、互いに愛し合い、互いに関心を示しあい、聖フィリポとその子どもたちの正当な評判の上に傷がつかないように、一人一人が真剣にこれらのことを顧みるように。それら全ては神の栄光と教会の利益のために。」
 
 この精神性は、オラトリオ会員としての聖性への道です。ニューマンは妬みが全ての人間に生じる憂うべき問題であり、司祭にも生じるが、それはオラトリオ会員として相応しくないと注意を喚起しています。しかし、その対処方についてここでは注意を払うべきであるとしか述べていません。苦行に関して、修道生活に不可欠だった苦行を否定的に捉え直したのは聖フィリポでした。聖フィリポは苦行は人を傲慢にする落とし穴であることに気づいていたのです。苦行は本来、罪の痛悔や無秩序な傾きや情動から自分を清めるために行われ、霊的観点からの内的成長を目指すものですが、適切な指導者なしに行うことを聖フィリポは禁じています。
 オラトリオ会司祭が教区司祭よりもよりよい教育がなされていることは、聖フィリポが目指したことでした。それは学問のためではなく司祭が模範となるために養成されなければならないと考えたからです。司祭はよい指導者でなければなりません。聖フィリポは決して司祭養成を目的として共同体を作った訳ではありませんでしたが、聖職者の堕落が目に余るこの時代にあって、司祭の聖性を取戻すことは時代の要求であり、オラトリオ会はそれに応える役割りをなしたが故に、後継者は司祭養成に力点をおいたオラトリオ会を作っていくことになりました。