ニューマンのオラトリオ会 2

《オラトリオ会へ入会希望する者に対して》
 「聖フィリポ・ネリのオラトリオ会の修練者の扱い方は、各ハウスで異なっている。ナポリでは、イエズス会の修練の仕方に近似している。彼らは他の会員たちとは別にされ、彼らだけで一つの身体を形成する。他のハウスでは司祭たちと交流を持つことを許すところもある。フィレンツェでは、全員を一つの集団としてではなく、個人を尊重して一人一人として扱う。
 イギリスにはフィレンツェの方法が合っていると考える。全員を一つの身体と見なすことは好ましくない。性格や心の傾向、年齢、履歴が一人一人異なっており、また多種多様性がオラトリオ会の特徴でもあるからである。
 バーミンガム・オラトリオ会の志願者の扱い方として指導者に望むことは、指導者は志願者を一つの集団としてではなく、各々の必要やタレントを尊重して個別に見ていくことである。また、志願者はやがて会の中で能力に応じて司祭と同じレベルで使徒職を行なっていくことになることを考慮して、彼らの自由裁量によって自由に司祭たちと交流できるように図るべきである。端的に言えば、彼らを同僚、或いは友人として扱うのであって、自分より下位に位置する者として扱わないようにする。ただし、彼らが年少であるとか、教育や経験が不足している場合には別である。」

 ここで、ニューマンに特徴的なことは、個人の自由です。彼がこれを重視するのは、イギリスにカトリシズムを布教するためにはイギリスの状況に応じた対応が必要だからです。英国国教会からの知的な転会者の多くは、ワイズマンの後を継いでウェストミンスター大司教枢機卿となったマニング、そしてウォードのように、教皇庁の権威を重んじる保守的な神学を推進する者と、ニューマンのようにリベラルな見解を取る者とに分かれましたが、イギリスにおいて正統教会であるカトリックがマイノリティーであることを憂慮するニューマンにとっては、それを知らない人々への宣教が念頭にありました。知らない人々への宣教という点において、聖フィリポと同じ姿勢を持っていました。従って、聖フィリポがそうであったように、ニューマンもまた、宣教を実践していくためには宣教者の自由裁量や臨機応変さが認められることが重要だったのです。
 しかし、ニューマンが「自由」を何よりも大切にする本来の理由は別のところにありました。彼にとって子ども時代から「神とその被造物の自分」との二つの存在だけが絶対であり、物質的現象の実体性に対しては不信感を持っており、従って第三のペルソナである「聖霊」或いは「天使」の働きが全ての人的、物質的事象に優先するという信念を根強く持っていました。究極的には神以外のものに支配されることを良しとしなかったのです。
《愛徳について》
 修道会の核が誓願なら、オラトリオ会の核は「愛」です。聖フィリポに倣ってニューマンも会の中核に愛を据えます。
 誓願に代わるものは「愛」である。聖フィリポは共同体を愛徳のうちに創設した。修道者は愛徳を誓願への聖なる義務という観点から実践する。だが、オラトリオ会員は愛から愛徳を実践する。オラトリオ会においては、愛そのものが誓願に取って代わるものである。
 オラトリオ会員としての義務は、特に、共同体を一つの身体として考えることである。会員一人一人の私たちが一つの身体である。聖パウロは「互いに重荷を担いなさい」(ガラテア6:2)と教えたが、それを使徒たちはすぐさま愛徳の法の本質的要素とした。キリストの掟は愛である。互いの重荷を担い合う理由はそこにある。自分の義務だけでなく、他人の義務も担うようにしなければならない。アマレクとの戦いで、モーセの手を支えたフル(出17:10-12)のように。また、義務を行うだけでは充分でない。相手が思いやり、暖かさ、親切さを感じることができるように、それを心から行うのである。
 私たちが互いに愛し合っており、相手の幸福を願う者でありたいと望むなら、会員の一人一人が全てにおいて最高で最も親切で真実の友であることを信じるべきである。疑いや妬みを避け、無条件で自分を与えること。互いの間に距離をもったり遠慮したり恐れを感じていたら、それは取り除かれなければならない。秘密も最小限にすべきである。私たちは単純であるべきだが、それが怠惰や思いやりのなさなどに陥らないように注意しなければならない。
 こうしたある程度の善意と実行に到達するためによい方法は、聖フィリポの模範に従って使徒の書簡を理解することである。使徒の勧告は、私たちの間に兄弟愛を目覚めさせることを意図した人の中でも彼以上の人はいない。その勧告は聖フィリポによってオラトリオ会員たちにも語られたものとして私たちは受け取る。」
 
 愛は三誓願の内容を包含しており、愛が実践されるならば必然的に三誓願を実践したことにもなります。この図式は紙上においては明々白々であるが、いざ実践となると、これほど難しいものはなかったのです。上記のスピーチは1848年のものですが、実は、ニューマンにとっても始まったばかりのイギリス・オラトリオ会にとっても、共に生活することを学ぶ以外に何もできなかったと、理想には程遠い段階にあることを告白しています。しかし、この最も天上的な精神がオラトリオ会に特有な基礎であることは諦めていません。誓願なしにそれを生きることの難しさに直面し、ニューマンは「私たちの共同体はまだ修練者の段階にある。」と現実を直視して語り、「神が恵みの業を成し遂げ、最後にその恵みを与えて下さることを確信している」と将来への希望で結んでいます。