ニューマンのオラトリオ会 1

《ニューマンのオラトリオ会》
 ニューマンによれば、イギリス・オラトリオ会の特徴は以下のように集約されます。
1.オラトリオ会の内的特徴―初期キリスト教の形態への回帰
2.聖フィリポは初代教会時代へと弟子たちを招く。そこで固有のキリスト者共同体を形成する。
3.オラトリオ会は聖フィリポの意志に従って形式的な会則は設けない。聖フィリポは誓願のない共同体を創設したからである。
聖フィリポは、誓願を取り入れなかったばかりでなく、採用した会則も重いものではなかった。共同体を維持するために最低限必要なものしか採用していない。
4.修道生活との対比で見ると、オラトリオ会共同体の行動の法則は形式上にあるのではなく、内部に存在する。
5.イエズス会とほとんど正反対の形態を持つ。長上に対する従順はイエズス会において際立って重要な原則であるが、オラトリオ会においては、個人に働く聖霊に従うので、長上への従順はない。
6.身体の一部となって働くために、オラトリオ会員は自由な教育が授けられなければならない。
7.オラトリオ会の主動力は他へ影響を与えるものとなる。

以上のことについてニューマンは以下のように説明をしています。 
 「オラトリオ会は、教皇庁より認可された会則の下、使徒職の遂行のために誓願なしに共同生活を送る在俗司祭の共同体である。
 まず第一に、オラトリオ会は修道会ではない。修道会とは誓願の宣立によってその名を名乗る資格が与えられる組織であり、誓願を生きることによって完徳の道を目指す会であるが、オラトリオ会はそのような立場を取らない。
 第二に、オラトリオ会は在俗司祭の共同体だが、修道会のような完徳を目指すことを表明しない。むしろ、オラトリオ会の完徳の道は修道会とは異なる。オラトリオ会の完徳の道は自分に与えられた使徒職への全き従順にある。故に、毎日の仕事と日々の要請に従って信仰、希望、愛を生きる生き方を新しい会則の下に、日々の義務を遂行していくことも含んでいる。もし、毎日の義務を完全に果すならば、その人は完全である。もしより高次のものを目指さない場合、また、従順の勧告に伴う勇気と寛大さを持たない場合には、誰もその命令を完全に成就することはできない。毎日の義務を完全に果たすということは、勇気と寛大さがあって初めて正確且つ完全に行うことができるものである。
 共同体を形成することにも特別なメリットがある。会員たちの模範、自制、勇気、助言などを相互に与え合うことができるからである。世俗の誘惑からも守られる。従順の誓願がなくとも勧告の下に共同生活をしているので、貞潔誓願についても必然的に守られることになり、それは完徳のために充分である。」
 「もし、より高い状態を望んで誓願を宣立するつもりであれば、そのための修道会はたくさんあった。しかし、フィリポは新しい修道会を設立するつもりはなく、愛による一致の絆をもって、彼が集めた会員たちには束縛なしに神に奉仕することを願ったのである。
 修道司祭と在俗司祭とでは考え方に相違がある。私たちは修道者でもなく、修道者に固有の完徳もない。
 とは言うものの、オラトリオ会はそれでも修道会と呼んでもいいと思われる。タルジ神父は、オラトリオ会代表者として教皇に「オラトリオ会は在俗であり誓願もありませんが、会員は聖職者たちですので、我が会の会則において修道会と考えています。また、修道会則を厳守している他の修道会に比べて、決して劣っていないと考えております。」同様に「誓願がないので、修道会ではありませんが、しかし、ほとんど修道会と同じ習慣によって生活しています」と評価する人もいる。完徳に関しても、聖フィリポは「本質的にあなたがた全員に、完徳に関しては修道会を見習うことを求めてほしい。」と勧めている。以上のようなことで、修道会のようなものであると言ってもよいと思われる。或いは、半修道会である。完徳の道も修道会の方法が唯一と言う訳でもない。」
 「三誓願の代わりに、オラトリオ会は愛徳を中心におくが、それは単に超自然的な恩恵ではない。聖パウロの回心の時のように、単にイエスを主と知らされただけでなく、彼自身の人生も変えられた。故に、オラトリオ会の召命とは、その目的が単に聖フィリポの教えを知るためだけでなく、特別な共同体を営みながら実践していくことにある。相互に親密な絆で結ばれ、互いを知り、よい影響を与え合い、共同生活を続けていくことは大切である。」