ニューマン「聖フィリポ・ネリのオラトリオ会」

 しばらく中断しておりました「ニューマン」を再開します。
 オラトリオ会は、各共同体に自治権を与えており、ニューマンがイギリスにオラトリオ会を設立した時も、イギリスの国民性やカトリック教会の置かれた立場等を考慮することが許されていました。
 ニューマンのオラトリオ会は最初から独自のスタイルをとっていました。それは現代の「アジョルナメント(現代化)」の先駆けともいうべきものでした。彼は実に先見の明のある人で、イギリスの有識者たちも、イギリスにカトリックを広めるためにはオラトリオ会の方法が最適であったことを認めています。
 ニューマンは転会の時もそうでしたが、決心するまでには実に念入りに得心行くまで研究し、少しでも自分の心に疑いを感じるうちは決して歩みを進めません。しかし、ひとたび疑念が払拭され決心が固まって行動に移す時には、信念の人として別人のように行動する、という特徴があります。
 まず、オラトリオ会とはどういうものか、その特徴をみておきたいと思います。
《聖フィリポ・ネリのオラトリオ会の独自性》
 修道制の歴史を見ると、16世紀は、聖アントニウスや聖パコミウスの時代以来存続してきた共住修道制や共同生活の形態に幾つかの重要な改革がなされた時期です。初期の修道生活は苦行者の様相を呈しており、共住修道制は孤独のうちにも同じ仲間によって支えられ、厳格さに耐えることができるというものであり、その中でも最も本質的で重要な特徴は「従順」でした。大勢の人の共同生活は、長上と従う者という縦割りの人員で構成されます。その他、断食、徹夜、沈黙、体罰、信心修行、儀式、などが修道会に特徴的な要素として付加されます。こうした制度に対して16世紀の修道会はかなり修正を加えました。
 テアティノ会、バルナバ会、イエズス会などが修道会の大改革を行なった立役者です。とは言え、これらの修道会は共同生活の伝統的形態を改革しましたが、「誓願」は残しています。
 誓願宣立の歴史を見ると、1世紀の初代教会においては聖書に見いだされる「天国のために結婚しない者もいる」(マタイ19:12)などの言葉に従って貞潔(独身制)を生きる生き方をする者もありましたが、公的にそれを誓願宣立するものではありませんでした。4世紀になって初期修道制が誕生しますが、誓願に関して言えば、清貧、貞潔、従順は修道生活に内在するものであって、外的公的に宣立することはありませんでした。誓願宣立を明文化したのは、5世紀の聖ベネディクトゥスです。その時の誓願は「定住、回心(福音的諸徳の実践)、従順」でした。清貧、貞潔、従順を三誓願として制定したのは、12世紀のアウグスティヌスの会則に従う隠修士たちであり、以来、今日に至るまでそれが存続しています。
 16世紀の新しい制度の修道会も三誓願に関してはそのまま継続しています。それに対して、聖フィリポはオラトリオ会の会憲から誓願宣立を消したのでした。それは、パコミウスやバシレウスの初期修道制の会則を取戻した形態とも言えます。初期修道制において、長上への従順は絶対です。各住居も独立していました。これを模倣したオラトリオ会はその時代にあっては他の修道会に比べてむしろ独自性が強いですが、その原型となるべき形態はすでに在俗会などの形で存在しており、決して聖フィリポ独自のものではありません。
 にもかかわらず、独自性を感じさせるのは、聖フィリポ・ネリの時代を読む力と先見の明あるすぐれた洞察力と実践力によって際立っていたためと思われます。オラトリオ会の形態は、彼の目がローマの荒廃した人びとの魂の救いに向けられた結果生まれたものでした。それに対して、当時の修道会はむしろ信仰者が自分の信仰を守るために設立するものと言えます。フィリポのこうした姿勢こそが当時は新鮮に感じられたのです。
 聖フィリポが会の形態をどのようにすべきかを考えた時、理想のみを追求できる状況にはなかったことを知っておかなければなりません。聖フィリポにとって、最優先課題は彼の前に立ちはだかっていた具体的な宣教の実践問題です。彼の元に集まってきた彼の弟子たちを、ローマの人々の荒廃した霊魂の救済のため派遣せざるを得ない状況にありました。そのためには、修道会にすると制約が多く思うように身動きが取れない事態に陥ります。彼にとってのインドはローマ*1であったが故に、そんな状況に適応する共同体の形を考慮する必要があったのです。
 ニューマンがイギリスにオラトリオ会を設立するときの状況は、まさに、聖フィリポの創立当時の状況に酷似していました。
*1「彼にとってのインドはローマ」とは、フィリポ・ネリはフランシスコ・ザビエルの友人でしたが、インドに派遣されたザビエルからの宣教報告の手紙を受け取り、彼自身インドに宣教に行きたい情熱に駆られます。しかし、祈った結果、彼の働くべき場所はローマであることが神から示され、生涯ローマの人々の魂の救いのために尽力したのでした。