ニューマン、転会における苦悩―②


若者らと隠遁生活を送った共同体の家。馬小屋を改築したものです。
現在は「ニューマンコレッジ」というニューマン研究所(リトルモア

ニューマンコレッジの中庭。現在は宿泊もできます。多くの研究者が訪れます。

ニューマンの寝室。(ニューマンコレッジ)

現在はニューマン研究所としてニューマン関連の図書室になっています。(ニューマンコレッジ)

リトルモアにニューマンが建てた英国国教会。ニューマンコレッジのすぐそば。
1.リトルモアでの隠遁生活と疑惑
 『トラクト(時局冊子)第90号』事件以来、ニューマンは主教の命令で沈黙を約束し、『トラクト(時局冊子)』も中止し、公の討論からも身を引き、オクスフォードの職も退き、住居をリトルモア(オクスフォードからバスで一時間ぐらいの村)に移し、長年の望みであった聖アタナシオスの翻訳に従事していました。
 彼は命令に従って静かに生活していたのですが、彼の沈黙を許さなかったのはむしろ英国教会のあらゆる階層の人々の方でした。リトルモアで何をしているのかと執拗に問い、ある時はリトルモアまで偵察にやってきました。そして、勝手な判断と勝手な結論を引き出し、彼を中傷したのでした。すっかり手を引いた彼に対して、主教たちも相変わらず非難を続けていました。「何の質問もされずに行きたいところへ行く特権が、イギリス人の中で私だけがないのか。なぜ私を平和のうちに死なせてくれないのか。私を一人にしてくれ。」とその時の苦しい思いを綴っています。
 しかし、ニューマンは誰にどのように言われようとも、この歩みは神に導かれたものと考えていたので、彼自身にも撤回することは不可能でした。この試練は耐えるしかなかったのです。
 リトルモアに移って、ニューマンはその場を隠遁所としていましたが、同時に他の人々にも提供していました。他の人々とは、ニューマンと考えを同じくする若者たちであり、彼らは血気盛んで、今すぐにでもローマ教会に転会しようとしていました。ニューマンはまだ聖職者にある立場から、また、友人から依頼されたこともあり、彼らを引きとめ、冷静さを取戻すためにもリトルモアの場を彼らに提供して共同生活をしていました。
 しかし、新聞には、「いわゆるアングロ・カトリック修道院リトルモアで建設中である。ここにおいて、宿舎、聖堂、食堂、回廊といった一切のものが完成されつつある。これはオクスフォード教区のある教区司祭の監視下に進められている。」と掲載されたのです。この記事の意味するところは、ニューマンが誰の許可もなく、勝手にローマ的な修道院を復活させようとしているという非難でした。しかし、ニューマンはこれを全面的に否定し、教会の許可もなく修道院建設を企てることはなく、ましてここには聖堂も食堂もありません。彼がしていることは個人的なことであって、教会的なことではないと説明しています。
2.ローマ教会への疑問
 ニューマンは聖マリア教会の司祭を辞任して以来、すぐにカトリックへ改宗することなく、さらに約二年間を平信徒という身分となってリトルモアで隠遁生活を送っていましたが、これは見方によっては、英国教会に見切りをつけていたはずなのに不可解な行動にも思えます。実はまだ、ローマ教会に対しての疑問が完全には解決されてはいなかったのです。その最たる問題が、ローマ教会の聖母と聖人に対する信心でした。これは彼の神学にとって以前変わらず受け入れ難いものでした。この疑惑があるうちはローマ教会へ入ることはできない相談だったのでした。
 この彼の疑問を解決させたのは、聖イグナチウスの『霊操』の体験と研究でした。これにより、彼は宗教における最も純粋で最も直接的な行為、つまり、神と霊魂の交わりにおいて、黙想、痛悔、最良の決断、召命の識別などをする時、霊魂は「一人は一方(ひとかた)と共に」であることを発見するのです。これは被造物と神との間にはいかなる者も介在しないということでした。この発見により彼は、カトリック教会は物質的、非物質的のいかなるイメージも、教義的なシンボルも、儀式も、秘跡も、聖人も、聖母マリアでさえも霊魂とその創造主との間に介入することを許してはおらず、神だけが唯一の贖い主である、と明確に認識して得心することができたのでした。天使や聖母や聖人たちに対する信心とは、私たちが友人や家族に対して抱く愛と同じものであり、それは神への信仰と何ら矛盾するものではないと知るに至り、彼の前に立ちはだかっていたローマ教会への壁は取り除かれました。
3.心の拠り所―聖性
 ニューマンは10年前に英国教会を去るべきだったのに、ずっと留まっていたのは恥知らずなことだと非難した福音派のスタンリー・フェイバーという人物もいました。
 彼はこうして英国教会を去らなければならない理由とローマ教会への共感とが増大してきました。時間がかかったのは、前述したように「理性」に従うことを貫いたからでした。
 時間がかかったことに対する非難への彼の弁明には、もう一つの特記すべき霊性があります。それは「聖性」です。彼はこのようにも言っています。
「私たちに多くの混乱があるにも関わらず、私たちの間で神に捧げた生活がなされていることが明らかなら、それは何にもひけをとらない教会の卓越した特徴と言えます。私たちがいる場に主がそれを与えてくださっているなら、一体他のどこに主の現存を探し求める必要があるでしょうか。どんな必要があって自分たちの宗派を変えなければならないでしょうか。」(Newman, J.H. Apologia pro vita sua.p.193)
 聖性とは神の領域の中で生きようとすることです。この世における環境がどのようであろうとも、霊的に神と共にある生活を実践するなら、それこそがキリスト者のあるべき姿です。ニューマンにとって「聖性」がキリスト者の第一義であることは、彼の説教集を支配しているテーマが「聖性への招き」であることからも明白です。また、英国教会が基盤としていたものを支持できないと思った時になお、英国教会側に立つことができる可能性を探った時に拠り所としたのは英国教会の聖性でした。ニューマンはメレティウスの例を引いて言います。アンティオキアの司教メレティウスは異端の疑いで一時は教会を追放されるが、後に呼び戻されたのは、彼の柔和さと聖性ゆえに頑なな人々の心を溶解してしまったのだと。聖性は過ちさえも突破するのです。
4.転会の準備を始める
 このようにして葛藤が鎮圧し、ついにローマ教会に入ることを妨げる理由がなくなった時点で、ニューマンは転会のための準備を始めます。理性に従うことを自分に誓った彼は、その見解を知的確信に変える作業にとりかかります。具体的には、1843年2月に、これまでローマ教会に対して言ってきた全ての非難を正式に撤回し、9月には、聖マリア教会の聖職禄を辞職しています。リトルモアの教会に関しては聖マリア教会の一部であり、彼自身が建てた教会であるだけに特別な愛情を持っており、そこの副牧師に留まることを考えていましたが、それは受け入れられずリトルモアの教会の任務からも完全に退くことになります。それは残念なことでしたが、熟慮すればその方がよかったことに気づいています。こうして、あらゆることが落ち着くための時間として二年間をリトルモアで一信徒として過ごしたのでした。