ニューマン、転会における苦悩―①


ニューマンが司祭を務めていた英国国教会の聖マリア教会。(オクスフォード)
 英国国教会は正統教会ではないと、彼の良心がそのように教えている以上、良心に対して逆らうべきではないというのが彼のいわば掟でした。彼はそれ以降、このことが悩みとなりごく親しい身近な数人の友人にだけ打ち明けて相談しています。その時、ニューマンの弟子のロジャースは、聖マリア教会を去るしかないと残念さを伝え、一方キーブル氏は、彼の考えをそのまま受け止めはするものの、今教会を去るのは時期尚早であり注意深く行動するようにアドバイスしています。なぜなら、この考えのために執筆活動からも教会からも退くというのは、英国国教会について行けなくなったために信徒になり下がるしかなかったのだという悪評の立つ恐れがあると心配したからです。ニューマンにとって不利にならない時を待った方がよい、という訳です。しかし、ニューマンにとっては、こうした処世術を心得たアドバイスよりも、キーブルが彼の考えを承認してくれたことの方が重要でした。むしろ彼らの賛同がニューマンにとって英国国教会を去る決意の助力となりました。
1.ニューマンへの激しい非難
 英国国教会を去る決心を促した外的要因としては二つ考えられますが、その一つはニューマンが責任者となっている『トラクト(時局冊子)第90号』の出版による彼に対する周囲の激しい攻撃です。
 その第1号からし英国国教会の危機を指摘し覚醒を呼びかけるような性質の内容でしたが、1841年2月に発行した第90号においては、英国国教会の39ヵ条のカトリック的解釈を行なっています。ニューマンにとって39ヵ条がローマ・カトリックの古代教会より保持している信条と一致していないのは不都合でしたから、一致していることを立証しようと試み、それは可能だと判断して書いたものでした。しかし、この『トラクト(時局冊子)第90号』は主教たちにとって看過できないものでした。39ヵ条こそは英国国教会の正統な基盤であり、拠り所であり、ローマ・カトリック教会は逸脱した教会とみなしている伝統的な教会人にとって由々しき問題でした。これに対する英国国教会側の反発は大きく、オクスフォードでは「議論ではなく恐怖と激怒」を巻き起こした、と言われるほどの問題となりました。また、主教たちは、自分たちの財布をニューマンに預けようとは思わない、と公言してはばからず、「カトリックめ」とか「反キリストが間近にいる」とかいった叫びがこだましたのでした。オクスフォード大学の教官は、タイムズ紙に抗議の書簡を送り、またオクスフォード大学の諸学長は会合を開き、『トラクト(時局冊子)第90号』を非難しました。かくして『トラクト(時局冊子)』はついに中断を命じられます。のみならずそれ以降、主教たちは彼を非難し始めます。しかもその非難は実にその後3年間も続くことになります。ニューマンは当初、その非難に対して抗議しようとも考えましたが、今まで英国国教会のいわば宗教改革のために努力してきたことが無に帰してしまったように感じ、希望を失って抗議する気になりませんでした。かといってニューマンは自分の見解を撤回するつもりも毛頭ありませんでした。彼はこのような非難の中、主教たちは『トラクト(時局冊子)』が理由もなく感情的に気に入らないと言っているだけで、内容そのものを具体的に指摘して非難しているのではないことに気づき、この危機をやり過ごしました。
 すでに英国国教会の信条にこれ以上従っていられない、と自分の心の傾向をはっきりと自覚したニューマンは、オクスフォード運動内の地位を放棄する旨の手紙を主教に書き、主任司祭を務めていた聖マリア教会を辞する準備を徐々に始めることになります。もはやニューマンは、迷いを払拭し明確に英国国教会は異端であるとの結論を下していました。カンタベリー大主教と直属の主教に対して、以下の厳粛な抗議文を送っています。
英国国教会は、カトリック教会の一派であると主張する立場からのみ、カトリック信者としての忠誠心を主張することができるがゆえに、ルター主義とカルヴァン主義は3世紀前に突如として出現し、西方教会からも東方教会からも異端、且つ、聖書に矛盾するとして破門されたものであるがゆえに、これらの理由により、英国国教会の司祭およびオクスフォード聖マリア教会の主任司祭の立場から私の良心の救済のために、前述の法案は現在の地盤から私たちの教会を奪い分裂へと向かわせるものとして、それに対し抗議し、また否定するものである。」 ジョン・ヘンリー・ニューマン 1841年11月11日
 この書き方がキーブルからいささか礼儀に欠くという注意を受けましたが、ニューマンは積年の思いを正面から明示したことによって一区切りをつけた安堵感を覚えています。しかし、同時にこれによって彼は自分の足場を失うことになる訳で、真理に従う至福感とは別に、精神的に大きな不安要素となります。主教たちの止むことない非難もあって、この頃の心境をニューマンは「1841年の末から、私は死の床にあった」と表現しています。
2.弟子の尚早なカトリック転会
 もう一つの外的要因は、一年前からニューマンの下で共同生活を送っていたウィリアム・ロックハートカトリックに転会してしまったことでした。ニューマンは『トラクト(時局冊子)第90号』の騒動以降、オクスフォードの職からは身を引き、引退してリトルモアに居住していましたが、聖マリア教会の司祭職は続けていました。ニューマンはまだ英国国教会の聖職者の立場にあるという自覚から来る忠誠心と直属の主教に対しての義務をはっきりとわきまえているからこそ、彼の影響のゆえに誰かがカトリックに改宗するようなことがあってはならなかったのです。まして、ニューマンの追随者は若者であって、まだ一人前ではなく、いわば興奮状態にあるがゆえにカトリックになるという行動を起こさぬよう、ニューマンはむしろ転会から彼らをひきとめていました。さらに、彼らの両親や上司からも彼らを保護するよう約束もしていたのです。ロックハートに関しても少なくとも3年間は英国国教会に留まっていることを条件に受け入れたのでした。ところが、ロックハートの転会はニューマンには事前の相談もなく、事後報告という形で連絡が入りました。ロックハートは3週間も共同体を留守にしていましたが、1843年8月25日、彼から「私はカトリックに入会の準備のためラフボロのジェンタイリ博士の下で黙想しています」という手紙を突然受け取りニューマンは衝撃を受けます。そして、主教との約束が遵守できなかったのですから、もはや彼は聖マリア教会の司祭職を続けることはできないと決断したのでした。