ニューマンの転会決心までの物語

1.英国国教会ローマ・カトリックの分離への疑問
 ニューマンは物心がつく頃から既に、諸教会、特に英国教会とローマ・カトリック教会が分離していることに疑問を感じ、そしてそれへの解答を自ら提示しなければならない使命を宿命的に負っていました。
 ニューマンが正統教会理解の支柱の一つとして「古代性」に目覚めたのはブル主教の著作『ニケア信条弁護論』(”Defensio fidei Nicænæ ”)からです。15歳の時の『教会史』の読書から、初代教会や教父たちに魅了されていた彼には、すでにその素地がありました。
 古代性に注目するようになったニューマンは、さらに研究を進めていく事になります。古代性に価値を置く事は、「自由主義」を否定することへと彼の宗教的姿勢が定まっていきます。
 自由主義は宗教上の堕落や世俗化をもたらすとニューマンは判断しています。信仰者の寄って立つべきところは人間の変わりやすい理性的判断ではなく、神からの啓示によって示された命題を保持している初代教会から連綿と続く歴史性にある、ということです。
 英国教会とローマ・カトリック教会の教義を照査していたニューマンは、その研究当初においては当然英国教会の立場に立っていました。研究はむしろ英国教会の教義に確実性を与えるためでした。
 研究当初は疑いも抱かず、疑いが起こる気配すらありませんでした。ローマは偶像崇拝だという判断によって反ローマ主義の立場に自信を持っていたのでした。
 しかし、その一方で彼の心の奥深くでは数年来、永遠の真理に達してはいない不安のようなものを感じていたのです。自分が何か旅路の途中にいるように感じていました。何かしなければならないという思いがどこかにありました。しかも、その道はたった一人で歩まなければならないことも予感していました。

2.カトリックへの開眼の衝撃的な出来事
 こうして英国教会とローマ・カトリックとの比較研究は始まりました。ニューマンの古代研究は「教義」に集約され、1839年6月に、キリスト単性論者の歴史を究明する研究に着手しています。彼を決定的に揺るがす出来事は、その研究中に起こったのでした。

...アングリカニズムがはたして批判に耐えうるかどうか、といったことについての疑念がはじめて起こったのは、その読書の最中である。...8月の終わりには、私の心はまったくの恐慌状態に陥っていたのである。...私の砦は古代性であった。ところが、この5世紀の半ばのこの時に、16世紀と19世紀のキリスト教世界が反映されているのを見たと私は感じたのである。私はその鏡の中に自分の顔を見た。私は単性論者だったのである。...現在の教会の原理と実践は当時の教会のそれであり、当時の異端者の原理と実践は現在のプロテスタント教徒のそれなのだ。私はほとんど恐れおののきながらそう悟ったのである。(Newman, J.H. Apologia pro vita sua. p.101) 
 彼はこの時、自分が論証しようと努力していることは、教会史上異端として断罪されたアレイオスやエウテュケス側の思想であり、正統教義とされたアタナシオスやレオ1世らに反論をしようとしていることに気づくのです。そして、英国教会が正統教義を保持している聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会に連なっているなら、ローマ教会が保持しているその教義と一致しているはずです。ニューマンにとって一致していないという結論が出てしまうことは何としても避けたかったことでした。事の重大さに彼は激しく動揺します。
 さらに追い撃ちをかけるようにこの一連の読書の後、ローマ寄りの友人のロバート・ウィルバフォース大執事が読むようにと持ってきた『ダブリン評論』の中のワイズマン博士の記事が、まだ現実を受け入れる準備が整っていないニューマンに腹痛を起こさせるほどの衝撃を与えることになります。
 ニューマンの胸に突き刺さったのは、その評論の中で引用された「世界は誤りなく判断する」Securus judicat orbis terrarum.(The whole world judges securely.)というアウグスティヌスの言葉でした。それは教会全体が神に導かれて向かっている方向性を示している言葉としてニューマンに響き、彼にとって否定できない決定的なものとなります。この言葉は単性論者に向けて言われた言葉として聞こえたのです。この言葉は彼が信じていた古代性の基準よりももっと力を持っていました。それは、教会内の問題は教会全体が向かっていく慎重な判断にこそ不可謬性がある、と言っていたのです。そして、ニューマンは、アウグスティヌスのこの言葉が英国教会の「中道(Via Media)」理論を完全に粉砕した、と悟ったのです。

3.カトリックへの転会までの慎重さ
 ニューマンは開悟するや否や、この出来事を「新しい光」と呼び、開眼に興奮します。そして彼は「結局、ローマ教会が正しいということが判明するだろう」と言っており、迷いが払拭されたかのように思えました。この時38歳でした。その時からカトリックへの転会までには6年を要しています。
 彼は開悟しましたが、すぐに転会への行動を起こすような衝動的なタイプではありませんでした。この出来事が彼に与えた興奮は長くは持続せず、まもなくして冷静になると、この開悟と思える出来事が上からきたものではなく、下からきたものかも知れないという疑念が脳裏によぎるようになります。そして、このヴィジョンが感情や想像力から出たのではないことを証明するために、この時以来、彼は「理性」に導かれることを堅く決心するのです。この新しい光が本当に一点の曇りもない本物の光となる時期を彼は待ったのです。この理性に従う決心が転会を遅らせた、とは彼自身が自覚していることです。