ニューマン列福までの道のり

 ニューマン胸像(イギリス、リトルモア
《ニューマン列福運動》
1.列福理由
 ニューマンは1991年1月22日、列聖省から「尊者」として認められました。今回の列福の理由としてまず、考えられることは、第2バチカン公会議に多大な影響を与えたという事実があげられます。このことは、生前はあまり理解されなかったニューマンの教会に対する見解が正統であり、失いかけていた教会の本質を回復させる役割りを担うことになったことを意味します。
 イアン・カーは、そのことに加えてニューマンの40巻もの著作と30巻もの書簡集から見えてくるニューマンの信仰の姿がまさしく「知解を求める信仰」という古典的定義そのものであったことを理由に挙げ、そこに彼のヒロイズムがあると言います。真の神学者とは信仰において卓越した人のことですが、ニューマンは英国国教会からカトリックへの転会において大変な苦悩を舐めました。その苦悩に耐えることができたのは、真理(神)に対する信念に支えられていたからであり、カトリックへ転会後もそうした苦悩は続きますが、真理の前に決して妥協しない姿勢はまさに英雄的と言えます。
2.列福運動の動き
 ニューマンの列福運動は最初から全世界的広がりを見せ、イギリスやヨーロッパのみならず、1935年には、カナダのトロントからニューマンの列福を祈るカードが作成され広められます。その6年後、1941年11月22日、イエズス会の神学雑誌『アメリカ』にニューマンの列福を呼びかける記事が掲載されます。その寄稿者はイエズス会のチャールズ・カラン(Charles Callan)です。彼らの運動理由は、ニューマンがカトリックの思想家であり、しかも、信仰や知的正直さへの要求に取り組んだ功績に強調点がありました。
 1945年は第二次世界大戦終戦の年ですが、ニューマンの転会100周年の年でもあり、その記念祭はイギリスで広く注目されました。その主唱者が教皇ピオ12世だったからです。ピオ12世自身がその記念祭のためにウェストミンスター大司教宛に「真理への奉仕」と題して、ニューマンはその全生涯を不屈の精神を持って真理の探求のために捧げた人として祝辞を寄せています。
 また同じ1945年に、ルター派から転会してオラトリオ会士となったフランスの神学者ルイ・ブイエ(Louis Bouyer)も「ニューマンの霊的生活」と題して『ダブリン評論Dublin Review』で、ニューマンが我々を惹きつけるのは、現代の聖人としか言いようがない魅力によってであり、彼は教会において必要とされていたことを的確に捉え、妥協も虚偽も許さないキリスト教の真正さを彼の聴衆に向かって直接、明快に伝えた、と述べています。彼のこの記事はやがて本として1952年に出版され、その本は多くの神学者や高位聖職者らの目にも留まることになります。
 公会議に参加した司教たちはニューマンは教会に利益をもたらす人として彼を列福する嘆願書をパウロ6世に提出しました。しかしその後、ニューマンの書簡集の編集などは進んだものの、運動自体は後退気味でした。1973年にパウロ6世は列福運動の進捗状況を問いただしました。彼としては1975年の聖年にニューマンを列福したかったからです。しかし、状況としては列福に必要な書類や列福を求める人々の祈りがまだ不足だったのです。
 ヨハネ・パウロ2世教皇となると、彼もまたニューマンの思想や彼の生き方の模範の重要性を確信しており、ニューマンが枢機卿となった100周年の1979年に、教皇バーミンガムのドワイヤー大司教にメッセージを送り、列福運動に個人的な関心があることを伝えています。
3.列福遅延の理由
 ニューマンに対して反感を抱く人もいます。彼は自分の反対者に対しては激昂しやすく、彼にひどく傷つけられて赦せない思いを抱いている人がいるのです。ニューマンの評論や伝記を書いたウィルフレッド・ワード(Wilfrid Ward、英国人1856-1916)なども彼を神経過敏で冷たく聖人のタイプではないとしています。こうしたことが遅延理由となりました。
 さらにもう一つの列福遅延の理由は、ニューマンは生前、不健全な思想を持った論客であるとの疑惑をもたれていたことにあります。ピオ10世は1907年9月8日に回勅『パッシェンディ(Pascendi近代主義の誤謬)』を発布しましたが、それにおいて神学の刷新を希求している近代主義者を激しく非難しています。ニューマンはこの頃ヨーロッパを席巻していたモダニストたちに利用されてしまったため、この回勅によりニューマンにも嫌疑がかけられてしまったのです。ニューマンの進歩的に聞こえるその思想もまた危険視されました。たとえば、彼の教義発展論の考え方、教会における信徒の役割りを重視する姿勢、正しく見識のある良心にプライオリティーを置く考え方、近代的な考え方を持ちローマの神学に対しては嫌悪感を持つ、第一バチカン公会議での教皇の不可謬性の決定に対して留保する態度などの問題がありました。
その後、近代主義への非難は1967年第2バチカン公会議を引き継いだパウロ6世によって廃止され、1983年になって「ニューマン国際学会」で正式に彼の疑惑は晴らされています。
4.列福決定
 今日、ベネディクト16世は、列聖・列福調査について、最初の教区での調査段階から「証言と資料を通し、熱心に歴史的事実を追求しながら、細心の注意をもって調査・審議をするように」と望まれ、司教は列聖対象者が真に堅固で広く行きわたった聖性の名声を持ち、奇跡または殉教の条件を備えているかを注意深く検討する義務があり、たとえその対象者の人となりに明白な福音的言動や、教会および社会における特別な功労があったとしても、聖性の名声が確証されなければ調査を開始することはできないと述べていましたが、ニューマンについて9月19日に列福式を執り行うことが決定されました。
9月8日の教皇ベネディクト十六世の237回目の一般謁見演説:(カトリック中央協議会HPより抜粋)
「9月19日(日)にバーミンガムで尊者ジョン・ヘンリー・ニューマンを列福できることはとくにわたしの喜びです。この真に偉大なイギリス人は模範的な司祭生活を送り、多くの著作を通じて、英国と世界中の多くの地域の教会と社会に永遠の貢献を与えました。いっそう多くの人々がニューマンの豊かな知恵を学び、その調和のとれた聖なる生活の模範に励まされることを望み、また祈っています。」