私のイエス1「私の重荷を担われるイエス」

 今日は集会祭儀。参加者女性9名、男性1名。
 今日の福音書は、百人のうちたった一人でも見失ったなら、主はそのたった一人を懸命に探し出す。たった一人の人の滅びも望まれず、最後の一人までも救いたいという主の思いが語られている。
 聖書にはいろいろなイエズス様の姿が描かれているが、自分にとってのイエズス様はどのようなお姿かということを集会祭儀の後、みなさんに聞いてみた。

《菊地さん(40代女性)のイエス様》
 彼女にとって救いになったみ言葉は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ11:28)だと言う。
 彼女のお父さんが53歳の年に突然倒れた。心肺停止の状態に陥り、お医者さんの懸命な心臓マッサージは40分に及び、医学的判断ではもう諦めてもいい時間が経過してもなお必死にマッサージは続けられ、その甲斐あって心臓は再び動き出した。しかし、意識は戻らなかった。植物状態の父を母と27歳だった彼女は勤めていた仕事もやめ、二人で交互に看護した。その生活は3年半続いた。その時、彼女はまだ信者ではなかった。
 カトリック二本松幼稚園を卒園し、その後プロテスタントの短大を卒業したことが彼女にとってのキリスト教との出会いだった。
 父の看護をしている間に、その辛さから救いを求めて彼女は聖書を開くようになった。背負いきれない程の悲しみと苦しみは、出口の見えない闇の中にいるかのようだった。そんな時に出会った言葉が先のみ言葉だった。彼女は、「ああ、イエズス様は自分の重荷を代わりに担って下さる。私を休ませて下さる。」そんなイエズス様と出会った途端に、彼女の中から重荷がスーッと取り除かれていくのを感じた。それからというもの、彼女は祈ることが好きになった。看護を母と交替して家に帰ってくると、彼女は祈り、イエズス様に全ての思いを打ち明けた。苦しみを乗り越えるお手本がそこにはあった。十字架のイエズス様を思えば、彼女の気持ちは楽になった。
 教会に行きたいと思い始めた。しかし、そのきっかけがつかめなかった。行ったことのない教会に一人で突然尋ねていくのは勇気がいる。そんなある日、お掃除に来ていた方が目の前で落し物をした。ロザリオだった。彼女はそれを拾い上げ、そのお掃除のおばさんに聞いた。「信者さんなんですか?」
 この些細な出来事が彼女にとって教会に行くきっかけとなった。そして、それからまもなく洗礼の恵みを頂き、今に至っている。会計係りとして教会の重鎮である。そのロザリオを落としたおばさんは二本松教会の長老、高宮さんだった。
 今、彼女は言う、最も苦しい時に主はそばにおられ、そして全ては主によって道が準備されていた、と。