司祭叙階ということ

 私があるNGOのメンバーとして長年教育支援をしてきたインドのイエズス会神学生ザビエル君が2月に助祭叙階され、10月9日に司祭叙階が決まった。こうしたことはプライベートなことだと思って、今まで特別話題にすることもなく過ごしてきた。それが、ある日ひょんなことで橋本さんとよもやま話をしている時に、ポロッと口にしてしまった。しかし、話したこともすぐに忘れた。
 ところが、昨日の集会祭儀の後、必要事項の報告や連絡が終わった時、橋本さんはあたかも教会の連絡事項の一つかのように、私の里子の司祭叙階の話をし出した。私は予期せぬことに驚いて、そして、この席で何故そんな話を持ち出すのだろうとキョトンとした状態でいる私にお構いなく話は進んでいった。すると、話を聞いた皆さんは、じゃあ、みんなでお祝いをしよう、と口々に言い出した。私は彼へのお祝いにアルバを贈ろうと思い、先日東京に行った際に、ピエタで186cmの彼のために特注してきたことを伝えたが、それとは別に二本松教会としてお祝いをしようと言うのだ。さらに、私は彼から叙階式の日には必ず参列してほしいと言われていたので、インドに行くことになっていると伝えたら、じゃあ、その旅費も協力しよう、と言う人までいた。
 その時、私は初めて気がついた。司祭叙階ということは教会全体のお祝い事だったということを。彼が司祭になるからには、もはや私個人の里子などというプライベートの人ではなかったのだ。そのことに気づかせて頂いて感動を覚えた。
 そして、インドでは召命が多い、以前復活祭に来て下さったベトナム人のマン神父様のことも思い出して、ベトナムでも司祭は派遣先に困るほどいるらしい、それなら日本の仙台教区にきてほしいね、という話になって勝手な期待を抱いて大いに盛り上がった。
 司祭年は終わったけれど、私たちの教会では「司祭の召命を求める祈り」は続行することが決定された。