郡山教会のマザーの写真展協力

 マザー・テレサ写真展の資金集めのために、兄弟教会(主任司祭が同じ)である郡山教会に行った。どれだけ協力して下さるのか、正直不安だった。しかし、その不安は喜びと感謝に変えられた。
 まず、リゲンザ神父様がお説教の中でマザー・テレサ霊性について話ながら、「今日は二本松教会の信徒会長の柳沼さんがお願いに来ていますので、皆さん、協力をお願いします」と言って下さった。そして、ミサ後のお知らせで渡辺信徒会長さんが私を紹介して下さった。そのような、とても話を切り出しやすい雰囲気を作って下さったお陰で私は、マザー・テレサの写真展の開催理由や経緯、二本松教会の状況、そして、準備資金が二本松教会では賄いきれないので、ご協力をお願いしたい旨を約5分ほど遠慮なく正直な気持ちで話させて頂くことができた。嬉しかったことは、ミサが終わっているのに、誰も立ち上がって帰ろうとする人はなく、真剣に私の顔を見て話を聞いて下さったことだ。話している最中から、マザー・テレサの力が働いていることを感じた。
 そして、資金協力ということで献金箱を出入り口においてお願いしたところ、ほとんどの方が快く積極的に協力して下さった。これには、本当に感動した。マザー・テレサの魅力は、片柳師が言ったように、「今も生きている!」のだ。
 この献金箱のそばでリゲンザ神父様と渡辺信徒会長さんも見守って下さり、さらに、今日だけでなく、また、しばらくしてもう一回呼びかけたらどうですか、と言って下さったことには嬉しさのあまり涙が出そうになった。家を出る時は、実は敵陣に1人で乗り込むみたいな気持ちがあった。だが、そこは敵陣どころか思いやり溢れる家族だった。1人ではない。助けて下さる。お礼を言うのが精一杯だった。
 さらに、開催中に郡山聖歌隊にミニコンサートをお願いした。実は、この計画は二本松教会の皆さんには反対者がいた。集客が見込めないからやめた方がよい、というのだ。私はお客さんが多すぎて会場に入りきれなかったらどうしようと心配していた。イベントに対して真逆の心配があることはおかしかったが、こうしたことでバランスがとれるのだ。私は、入らなかったことを踏まえて、聖歌隊のみなさんに「もし、10人しか入らなかったとしても、その10人のために歌って下さいますか。」と相談した。すると、「もちろんです。1人のためでも歌いますよ。」と言って下さった。私は安堵した。かくして、ミニコンサートも計画の中に織り込まれた。
 二本松教会にとって、郡山教会は頼りになる兄貴・姉貴みたいな存在だと改めて思った。これまで、実はさほど交流をもつチャンスもなかったが、マザー・テレサの写真展は教会間の交流を深めることにも大きく貢献してくれている。
 最初、二本松教会という小さな教会主催でこのような大きな行事を行うことは無謀だと思われたが、何の妨げもなく準備は進んでいく。これは神様とマザー・テレサの主催行事であって、二本松主催ではないのだ。私たちは神様とマザー・テレサの手にある鉛筆に過ぎない。この鉛筆は何と幸福であろうか。