現代の典礼について考える(2)

『第二バチカン公会議四十年後の典礼』ゴッドフリート・ダニールズ著「神学ダイジェストNo.107」より抜粋。
典礼には不変の要素と変化が可能な要素とがある。誰かが単純に事の全体を模様替えしてよいはずがない。変更不能な部分は、キリストご自身が定められたものだ。また、歴史的な由来のゆえに変化が許されない典礼の要素もある。おそらく聖書朗読と答唱詩編と祈願の典礼上の順番はこの範疇に入る。
○主題と変化の間にけじめがつけられるようになるためには、典礼に関する徹底した養成が不可欠である。典礼は伝統と歴史の知識、つまり文献的な知識を必要とする。世界中の多くの地域で典礼が目に見えて貧しくなっている理由は、単なる能力不足である。
カトリック典礼はだいたいにおいて短すぎる。典礼に備わっている豊かさをもたらすための時間が典礼には必要だ。それは、魂の霊的な時間のことである。典礼は情報の世界ではなく、心の領域に属しているが、現在の典礼の多くは、その出来事に分け入るための十分な時間も空間も提供していない。この点、東方典礼は尊敬すべき手本である。
典礼に耳を傾けているだけでは十分とは言えない。典礼がしっかりと把握されて、私たちのものとなっているということが必要だ。ここでの重大な要素は、沈黙と典礼を内面化するための時間である。
典礼を情報告知の手段として用いてはならない。典礼を他の活動のためのウォーミングアップとしてはならない。典礼とは集会ではなく、祭儀である。典礼の目的は典礼そのものの中にある。
●信仰と愛をもって典礼に入れば、その時にこそ典礼を理解することができるということだ。この意味で、共同体として典礼を祝うことを土台としないカテケージスは、典礼の理解をもたらさない。
典礼は、第一に経験し、典礼を生きて、その後にそれについて省察し説明するというのが鉄則である。心の眼を、理性の眼よりも先に開いておかなければならない。典礼の真の理解は、ひとえに心による理解をもって可能となるからである。
●「儀式」「儀礼」という言葉そのものには、退屈や単調さといったイメージがある。儀式は儀式主義とは違う。儀式や儀礼は金銭に換算できないし、他のもので埋め合わせることもできない。あらゆる人間の活動には儀式が伴う。すべての節目は儀式に彩られている。人の手に及ばぬ何かと出会うたびに、私たちは儀式や儀礼をもってそれを「人間化」するのである。
●反復性ときまり文句は、あらゆる儀礼につきものの特徴である。深遠な事柄を内面化するためには、安心感を与えてくれるきまり文句、つまり私たちが式次第と呼ぶ儀式上の言い回しが必要だ。
●繰り返される儀礼は、深い内省と内面化の機会を与えてくれる。典礼のような厳かな事柄は一度で理解しきれるものではない。時間が必要であり、時間とはすなわち繰り返しである。
儀礼と反復によって宗教体験を仲介してもらう必要がある。
儀礼が退屈ということは、私たちの典礼経験がきわめて個人主義的になっていることを明らかにしている。本来、儀礼とは共同体が一堂に会して祝うために必要なのである。
●忘れてならないことは、私たちは神の招きによって典礼に参加するということだ。典礼とは、個人的な好みに従って自分たちのために繰り広げるお祭りではない。典礼は神の祭儀である。私たちは招かれてそこに与るのであって、単に自分自身のニーズを満たすためではないのだ。
典礼に関する一つの重要な事実は、典礼が、宇宙との関係性を有しているということである。典礼のシンボルの多くは、火、光、水、食物、所作などの宇宙的な現実に由来する。時と季節、太陽と月の位置、夜と昼、夏と冬も典礼に関係する。典礼的な行事には典型的な人間の原型がすべて登場する。
典礼は本物によって捧げられなければならない。火も光も布も木もすべて本物でなければならない。復活徹夜祭を行う時刻など、時も尊重されなければならない。快適さや利便性は、典礼においては真正さに道を譲らねばならない。
◎しかしながら、ユダヤ的・キリスト教的シンボルのすべてが純粋に宇宙的もしくは自然的であるわけではないことに留意するべきだろう。それらはすべて、民と共にある神の歴史によって決定され条件づけられてきた。キリスト教典礼暦は、自然の暦ではなく、神と神の民との間の歴史的出来事を祝う一連の記念日から成る暦なのである。
▲「インカルチュレーション」が問題とされるようになった。典礼が「受肉」の事実であるならば、典礼はインカルチュレーションされなければならない。
▲しかしながら限界もある。典礼は信仰心を培うだけでなく、キリスト教のもろもろの神秘に形を与えるものでもあるからだ。これらの神秘は、特定の場所と時間において、特定の儀礼とシンボルとを用いて、歴史のうちに生じたのだ。
▲本物の典礼のインカルチュレーションは、キリストとキリストの神秘に憧れ、教会の伝統を求めつつ、「自然的」典礼がキリストの来臨を通して歴史化されることを願いながら執り行われるときに生じる。
典礼キリスト者の日常生活から遊離しているということについて、議論されてきた。また、神への真の奉仕は、その人の日常生活において教会の外でなされる、という人々もいる。
▽私たちが念頭におくべきことは、主日典礼が人間的な時間の単調を打ち破り、そこに明確な区切りを与えるということだ。典礼は生活ではないし、生活は典礼ではない。この二つが必要なのである。典礼と生活は一致しない。
典礼は第一に、救いの神秘、キリストの言葉と業を示し、現前させる。そしてまた、私たちの行いがキリストにおいて映し出され、浄化され、あがなわれる限りにおいて、私たちの行いをも示し、現前させるのである。
▽キリストの神秘――典礼において私たちの前に現存する――は、私たちの原型である。このようにキリスト論が私たちの生活を典礼のうちに決定づけることが非常に重要である。
キリスト者の生活は、礼拝と愛という二つのものの上に建てられているのである。