現代の典礼について考える(1)

『第二バチカン公会議四十年後の典礼』ゴッドフリート・ダニールズ著「神学ダイジェストNo.107」は傾聴すべき内容と思いましたので、これを抜粋、要約して紹介したいと思います。
・半世紀前の典礼改革以前の状況は、役務奉仕者と会衆の間の隔たりがはっきりしていて、司式者とは典礼法規を遵守する人であり、信徒は典礼そのものにはほとんど参加していなかった。
・信徒は式次第に参加することを望むようになり、第二バチカン公会議はこの望みの応えた。自国語を導入し、初代教会の実践に立ち帰って、信徒の関与が大幅に増し、典礼の核心に触れるまでになった。
・信徒の積極的参加は、「信徒もまた典礼を所有できるのだ」といったある種の傾向をもたらしかねない。司祭と信徒が祭儀を共に執り行うことは、典礼いじりにつながるおそれをはらんでいる。典礼は神聖かつ不変のものという性質から、人間に任された自由なものになって、ミサを捧げる人たちの所有物となり、典礼に奉仕するはずの人々が典礼の「所有者」になってしまう。
典礼の所有が起こると、典礼の神秘のあらゆる意味を剥ぎ取ることと、自分の意志とが、それらに取って代わる。
典礼とはまず、「我々に対する神からの働き」である。典礼は私たちを超えている。典礼は「先在する」。私たちは創造者ではなく、神秘に仕え、神秘を護持する者である。私たちが神秘を所有したり、創り出したりするのではない。
・「礼拝する人」の根本姿勢とは、受容的な姿勢である。その行為は、神へと向かう姿勢、心からの傾従、従順、恵みのうちに受け、驚嘆し、崇め、ほめ讃える態度である。それゆえ、信徒の積極的参加は、この「観想的」姿勢のうちに位置づけられる必要がある。
★第二バチカン公会議カトリック教会が抱き続けてきた大きな関心の一つは、共同体が典礼を理解する、ということである。典礼の分かりにくさとして第一に批判されたのは言葉であるが、自国語の導入直後から、それは単なる言葉の問題にとどまらないことが明らかになった。典礼そのものに馴染みがなかったのである。
典礼を分かりやすくするためのよくある対処法はたいてい役に立たない。私たちがまず問わねばならないことは、神は私たちに何を語っておられるのか、という問いではないだろうか。
典礼というものは、人間一般のもつ宗教性を単に構造化することではなく、アブラハムからキリストに至る人類の歴史における神の顕現を祝うものである。とすれば、私たちはカテキズムと入信の必要を避けて通ることはできない。
典礼は教育を必要とする。典礼は、神秘を宣べ伝えることと神秘を祝うことの両方であり、しかもその神秘とはユダヤ教キリスト教の歴史で起こったことだからである。
典礼の最深の核心が人間の理解に対して開かれることは決してない。ただ信仰のうちにそこに分け入ることしかできない。典礼は知識の対象ではない。
典礼は、典礼を信じ、典礼愛する人々に対してのみ、理解を許す。
典礼には反復性があるが、典礼はこの反復を通してのみ理解可能となる。「儀式」は反復性を抜きにしては語れない。
典礼を分かりやすくするために施された数々の変更が奏功しなかったのは、理解ということを即効性や認識的・知識的な面でのみ捉えていたためであろう。
典礼の分かりにくさは、私たちの姿勢もまた一因となっている。神との関係を全体的に吟味して、自分たちの信仰やライフスタイルなどを見直すことが求められている。
典礼理解とは、愛をもって「分け入っていく」ことである。また、私たちは観想の眼差しが衰えている。ルネサンス以降、人間は分析的な観察力を獲得する一方で、利害に囚われることなく観想する能力を失ってしまった。