福島サポート会議

 2月28日、福島デスク(カトリック二本松教会内)において、「第18回 仙台教区サポート会議」が開かれました。
《参加者》19名
・平賀司教様(仙台教区)
・菊地司教様(新潟教区)
・幸田司教様(東京教区)
・諏訪司教(大阪教区)
・小松史朗神父様(仙台サポセン)
・小野寺洋一神父様(亘理教会・司教総代理)
・ミゲル・ヴァレラ神父様(四つ家・仙台カリタス代表)
・シスター長谷川昌子(仙台サポセン)
・梅津明生神父様(郡山・二本松)
・上杉昌弘神父様(札幌)
・グエン・ゴン・ホアン神父様(川越・もみの木)
・古木眞理一神父様(長崎・大槌ベース)
・成井大介神父様(仙台サポセン)バンコックからスカイプで参加
・神田裕神父様(大阪・CBCJ復興支援)
・矢吹貞人助祭様(さいたまサポセン)
・田所功様(カリタスジャパン)
・小野亜衣子様(カリタスジャパン)













会議に先立って、午前中はお二人の被災者の現状を聞きました。
1)「会津自主避難者の現状について」
 郡山市から小さいお子様をお持ちのお母様が会津に避難されています。この会議にはスカイプで参加していただきました。
【家賃問題】
 この連絡会は、避難区域には指定されていないながらも、自分の町は子どもが暮らすには線量が高いと判断して、線量の低い会津若松市自主避難し、最初は皆バラバラでしたが、ここで知り合った同士で連絡を取り合い、次第に口コミで仲間も増え、会を結成するようになった集まりです。
 この会の目的は、自主避難家族も国や自治体等から家賃補助を受けられるようにすることです。
 残してきた家(両親や夫が住んでいる)との2重生活を送らざるを得ないことから、生活費や家賃等が2重にかかってきますが、自主避難ゆえに、援助や補助の対象には入っていませんでした。
 申請の結果、現在、会員44世帯のうち、20世帯に家賃補助が降り、生活がだいぶ楽になりました。残りの世帯に降りない理由は、「補助金は家賃6万円以下の賃貸住宅に住んでいることが条件」ですが、その条件を満たしていないためです。つまり、残りの世帯は6万円以上の住宅に住んでいる訳ですが、その理由は、6万以下の住宅は「借上げ住宅」としてすでに押さえられていて、もはや6万円以上の物件しか空いてなかったためなのです。不本意ながら6万円以上の住宅を選ばざるを得なかったのです。
 6万円以上の物件であっても、6万円に対して補助を出してくれたらいいのに、そうした融通はなく、6万円以上の住宅に住んでいる方には1円も降りませんす。理不尽な話です。
【その他の経費の問題】
 会津若松市内の公立の小学校に通わせるためには、住民票が会津若松市になければなりません。しかし、様々な理由から住民票を移すことができないので、公立には通わせることができず、私立のザベリオ学園に通わせています。私立なので諸経費が高くつきます。(なお、喜多方市米沢市は住民票が他にあっても公立に入学できるそうです。)
 元々の自宅に残っている祖父母らの面倒を見るために帰省する際のガソリン代、高速代などがバカになりません。
 2重、3重生活(両親、単身赴任の夫、自主避難している妻と子)なので、生活費が大変です。
【精神的な問題】
 地元の自宅に帰ると、近隣の方々から、「あなたは自分だけ逃げたのね」という目で見られて、居心地が悪い思いをします。
 家族の中でも見解が分かれます。夫は自主避難に反対でした。でも生まれたばかりの乳飲み子だから、安全なところで生活したいと夫の反対を押し切り自主避難してきました。夫は今では諦めていますが、上の子どもが会津での学校生活に慣れるにつれて、転校もしにくい状況になってきたためです。
 たまに実家に帰っても肩身は狭いのです。身内といえども生活費は出しますし、長居は禁物という雰囲気があります。

【子どもの健康の問題】
 甲状腺の検査をしてほしいのに、どこの病院に行ってもしてもらえません。

【心の分断】
警戒区域の内と外の人の間で、諸々の待遇が違うことから分断。
補助金が降りた家と降りない家、たくさん降りた家と少ししか降りない家の間の分断。
・家族内でも放射能に対する見解の相違からくる分断。
・福島野菜を食べるか食べないか...知り合いの農家から毎年お米やリンゴを買っていたので、原発事故後も買わざるを得ないが、食べたくはない。食べないのに買わざるを得ないジレンマ。 お話の最後に、どうしてほしいですか、という質問に対し、「こうして話を聞いて頂いたことが一番の慰めです。今まで、自主避難者は訴えも聞いてもらえず、みんなから見捨てられ忘れられていると感じていましたが、こうして問題を取り上げてもらえて話を聞いてもらえて、それが一番嬉しかったです。」という言葉が心に残りました。この2年間、どれほど辛い孤独な中に捨て置かれたのかを垣間見る言葉でした。

2)二本松市における農業の現状について 
講師:大内信一様(有機農業家、無教会派信者)のお話
有機農業家の大内信一さん
「45年前に三重県の「愛農会」で出会ったことが転機でした。その時初めて聖書を知り、5年後には有機農業とも出会い、聖書と農業が私の使命と感じるようになりました。「人を愛し、神を愛し、土を愛す」という三愛運動を柱にしていた愛農会から影響を受けました。
「福島の大地を守り福島で生きる、それが私に与えられたはかりなわである」旧約聖書預言者ははかり縄と言う言葉をたびたび使っています。はかり縄は、面積を測るしるしのついた縄で、それはまた鉛がついた紐のことも指すようです。「はかり縄は災いを下す」という箇所があります。この神様のはかり縄の下げ降りが、神の意志によって福島の地に落ちたと私は思いました。日本は経済発展を追求して成長を遂げました。その経済成長を維持するために原発をどうしてもやめることができません。そういう中で我々はどう生きるのか。やはり我々は与えられた土地で、与えられた状況の中で生き方を考えていくことが大切だと思います。
 残った我々は、福島の地を、花や作物で飾りたいと思っています。ひまわりやナタネは放射能をたくさん吸ってくれます。それは神様から与えられた大きな恵みであると感じました。またきれいな花が咲いて油がとれます。そして油にはセシウムは移行しません。その油は食用にもなりますし、エネルギーにもなります。福島では、今、農産物を作っても売れないし、人もいなくなるということで、田畑がどんどん荒れています。そういう中で、我々はそういう作物を与えられたと思います。
 原発が爆発したとき、ほうれん草が畑いっぱいに葉を広げておりました。収穫間近のものでした。その畑に行って私は感激しました。「ああ、ほうれん草が空から降った放射能を葉っぱで受け止めて土を守ってくれた」と思ったのです。そのほうれん草を軽トラック10台分ぐらいを運んで捨てました。ほうれん草が自分の身を犠牲にして土を守ってくれたと思いました。その時、小さい芽を出しているほうれん草もありました。5月になって大きくなったほうれん草を放射能検査しましたら、まったく吸っていませんでした。
 私は栄養が豊かな土地であれば、作物がセシウムを吸わなくてもいいのだと感じました。土の豊かさと作物の賢さがあいまって我々を助けてくれる。捨てなければならなかったほうれん草と食べられるほうれん草を見ながらそう感じました。ネギはすべすべしているので放射能をまったく寄せ付けません。根からもまったく吸いません。
 ネギの後には虫害も受けず立派なカブやニンジンが育っています。放射能も寄せ付けず、害虫も防いでくれるネギが我々の大きな助けになっています。しかし、放射能に対する不安から6割の消費者が去りました。それでも「大内さんが食べる野菜なら私も食べます」と言って、4割の人を我々を支えてくれています。
 この状況の中で何を作ろうか悩みましたが、ニンジンに着目しました。チェルノブイリでもキュウリ、ナス、トマトの次にニンジンが放射能の吸収が少ないことが分かっています。それをニンジンジュースにしようということで取り組んでいます。
 人間にはそれぞれ与えられたはかり縄があります。そしてやはり生きる糧になるのは聖書の言葉、聖書の歴史だと思います。それにより支えられておりますが、有機農業の面でもひとつの明確な方向性を与えられました。それは自分だけが安全なものを生産するのではなく、地域全体で安全なものを栽培していこうということです。
 私は福島を日本一安全な農産物の生産地にしたいという夢を持っています。我々が培った40年の蓄積を一般の人々にも広げていきたい、そのように思っています。
 福島を守ること、それはまず土地を守ることだと私は思っています。花と作物で、田んぼや畑を飾りたい、それが福島の行く道だと思っています。
 「はかり縄は楽しき地に落ちた」というのは私の好きな言葉ですが、現代の聖書では「はかりなわは麗しき地に...」とも訳されています。何年か後、福島の地が今よりももっと麗しき地に、楽しき地になるよう祈りながら我々は進みたいと思っています。」

 福島の被災者の生の声を司教様方に聞いて頂いてとても嬉しく思いました。今後、小さい群れで放射能と戦っている人々にいかに援助の手を差し伸べていくか、その具体的方法を構築していかなければなりません。