記念(アナムネーシス)

 プロテスタントの友人が「聖餐式」のことで悩んでいた。「パンとぶどう酒」をどのように理解し扱うかの問題である。それはつまるところ「わたしの記念としてこれを行いなさい」の「記念」をどのように理解するかの問題である。
 『神学ダイジェスト』2012冬113号にグザビエ・レオン=デュフール(フランス人イエズス会員)の論文「わたしの記念としてこれを行いなさい」が載っている。カトリック信者にとってもミサの核心部分でもあり、もう一度再認識するために、また、プロテスタントの方へカトリックの理解を参考として、抜粋してご紹介したい。
 「これはあなたがたのために与えられるわたしの体。わたしの記念として行いなさい」。これはルカ22.19とⅠコリント11.25に記録された聖体制定句である。…この「アナムネーシス(記念として)」は、マタイ福音書やマルコ福音書には記述がない。
聖体制定句の文脈
 マタイとマルコの杯をめぐる言葉は、モーセによる契約のいけにえという視野のうちに据えられている。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言明する(マタ26.28,マコ14.24)。明らかにイエスの血が神殿で捧げられる動物の血に取って代わったことが分かる(ヘブ9.19以下参照)。マタイとマルコにおける最後の晩餐でのイエスの行為は、それ自体が明らかな祭儀的な特徴を示している。すなわちそれは、常に繰り返し行われるべき典礼的な行為なのである。そのためここではわざわざ繰り返しを命じるアナムネーシスのルブリカ(規定)を入れる必要がなかったのであろう。
 一方、ルカとパウロの記述は、モーセの契約のいけにえと直接には結びついていない。契約のいけにえではなく、苦しむ主の僕というイザヤ書(53章)の伝統とつながっている。ここでは祭儀的な意味合いが含まれていないため、この行為がイエスとの関連において繰り返し行われなければならないことを強調する必要がある。また、アナムネーシスを通して時間という次元を獲得した。このようにアナムネーシスの機能とは、イエスの過去の行為を継続する時間の中に置き、それによってイエスの行為のもつ時間を超えた次元を示し、イエスの行為を現在化させることなのである。
聖餐の行為
 「これを行いなさい」の意味は聖餐の行為全体を指している。それはギリシャ語の「これ(touto)がパンを指す男性形ではなく、行為全体を指す中世形であることからも窺われる。
 感謝の祈りがパンの上で捧げられるが、そのパンとは、裂かれて、分かち合われるためのものである。
 聖餐のアナムネーシスにおいて、私たちはまずイエス(わたし)と弟子たち(これを行いなさい)との関係を理解する必要がある。この関係は二つの行いを結ぶものである。一つは、イエスがご自分を多くの人のためにいけにえとして捧げることである。もう一つの行いは、イエスが示される出来事に従って、この先、弟子たちが形作っていくべき行いである。
聖書の時間と記憶
 時間とは空間の中に投じられたいのちである。そしていのちとはそもそも神ご自身であり、神によって人間に伝えられるものである。
 聖書における一瞬とは「現存」であり、神ご自身の現存を表す。
 永遠とは時間の永続的な続きでもなければ、この世における時間を超えたところで訪れるものでもない。永遠とはまことに時間のうちにある。それゆえ人間は時間の中で永遠の現存―時間の奥にある深い次元―を見出し、それを意識しなければならない。
 それゆえ、人間の想像力ではなく、神の為されるわざが時間の流れを司るのであり、それらのわざは忘却を許さない永遠という次元を持つ。記憶とは神のわざに組み込まれた時間である。
神の記憶と人間の記念
 私たちは神の確固たる現存を、記憶の言葉によって表す。聖書の中で人間だけが忘却の恐れにさらされているのは特記すべきである。神だけが覚え、記憶を留める。神は時間の主である。神は常に覚えておられるからである。神は人間の行為を覚え、それによって、元来は不安定は人間の行為を安定させる。
 信仰者が神に捧げものを奉納するとき、祭司は記念のいけにえ(アズカラ)を焼き尽くす(レビ2.2)。それは神の記憶、神が私たちを覚えてくださっていることを私たちが思い起こすための捧げものであり、そうすることによって奉納者は、自分が神の御前にあることを知る。こうして人間の行為は神の現存へと導かれて、永遠なる価値を得るのである。
 聖餐という人間の行為は、イエスの過去の行為を常なる神の現存に移すことである。この行為は、言葉の真の意味において「記念」なのである。
弟子たちの記憶
 旧約の過越の祭りには、新約のアナムネーシスの定式との一致が見受けられる。ユダヤの伝統では、信仰者たちは「まるで自分がエジプトから出るかのように」過越祭を行うように勧められる。聖書の時間に入ることで、私たちも過去の出来事に参与する。その出来事は時間を超えて常に客観的な事実として私たちに提示され、私たちは「祭り」を通して聖書の時間に入り、神の出来事に結ばれていることを再認識するのである。
 新約のアナムネーシスもそうである。人間は自分の中でイエスの記憶を思い起こすことによってイエスの現存に達する。
 聖餐は過去の出来事の常なる現在化であり、時間の中に永遠性を把握することである。アナムネーシスにおける「記念」は、現在に何の影響も及ぼさない過去の回想ではないということを覚えておく必要がある。
 聖餐は、時間の流れ(歴史)を通して、イエスのいけにえを現実化させているのであり、イエスが歴史の中でご自分の現存を明らかにするのは、聖餐を通してである。
記憶の具現化と聖霊
 最後に一言を付け加えよう。思い起こすことは、神ご自身がそれを御手にとってくださらなければ、何の効果もない。イエスの行いを記憶しているのは聖霊である。
 聖餐においてイエスを現存させるのは、正しくは人間の行為ではない。それは聖霊によって神ご自身が為されるわざなのである。

 以上の論文の骨子を分かりやすく一言で言えば、2000年前に弟子たちと共におられたイエスは、今私たちがミサを執り行う時、同じように今ここに私たちと共におられる!のである。記念と言うが、決して故人を忍ぶ思い出などではない。