訪問者からの報告

福島に視察に来られた方が以下のような報告書を書いて下さいましたので、ご本人の許可の下、ここにご紹介させて頂きます。

被災地と南相馬仮設住宅訪問のまとめ
(9月28日(金)〜29日(土)、参加者:三軒茶教会3名、町田教会1名)

【行 程】
9月28日(金)
14:00〜16:00 
宮代仮設でCTVC主催のふれあい茶の湯でボランティアとして参加
二本松市に移動 (二本松教会 柳沼さんと会う)
9月29日(土)
二本松から南相馬へ移動
原町教会、カリタス原町ベース訪問
南相馬の被災地(被災した老健施設、つなみ被災地、小高区、原発20kmを通り10kmゲートまで行った)
千葉のFさんからの紹介で、鹿島地区寺内仮設住宅訪問 自治会長 Kさん他、数名の方に会って現状を伺った。

【寺内仮設住宅
小高区(原発から20km圏内)からの被災者で148戸、高齢の方が多い。
小高区内自宅に4月から日中の立入りはできるようになったが、電気以外のインフラ(水、ガス、下水道)は復旧されていない。除染も全くされていない。壊れた家屋もそのまま放置。壊れた家も手つかずのままで、2011年3月11日でまるで時間が止まったままのようだ。仮設住宅からは片道1時間半かかり、高齢の方はなかなか行くこともできない。片付けに行ってもトイレも使えない。
自治会長の奥様のKさんとお嬢さん、女性4名、高齢の男性1名 計7名に集会所で話しを聞いた。

Kさん
原発事故後、夫婦、娘、犬2匹で避難。数日間車で過ごした。一時仙台にいたが2011年12月に寺内仮設に入居した。小高区では自営業。自宅では野菜、米を自給自足、飲料水は井戸だった。仮設(2DK)は狭くて置く場所がないので、衣類や食器はもういらない。避難したときからの生活費が東電への借払い金としてある。これまで約190万円の借り払いがあり賠償金から引かれることになる。仮設入居者のほとんどが農業や自営業で国民年金受給者だが、収入はなくなり、仮設での生活費(食費、光熱費、雑費)がかかり経済的に大変。野菜や米を買うなんてなさけない。支給された布団は薄くぺらぺらで寒い。冬は上に衣類などを沢山かけてしのいだ。支給された寝具はポリエステルの薄いもので、まるで葬儀用の布団のようだ(おくりびと布団のようだと何回も言われる)。夏はかなり暑かったので、扇風機を市役所にお願いしたら「高すぎる」と断られた。4月に20km圏立ち入り禁止解除になったが盗難が増えた。パトロールがなくなったから持って行き放題だ。家の中のもので使える物はほとんどない。たたみも布団も全滅。ねずみが走りまわっている。ある家では豚が住んでいた。パトカーの警察官も真剣味がなくメールをしていたりしていたので、「ちゃんと警備しろ!」とご主人が怒った。支援物資として送られて来た衣類はシミなどの状態が悪いものが多かった。食器も傷んでいるものもあった。住民のなかには「自分達をばかにしているのか」、「惨めだ」と言う人達も少なくなかった。仮設は狭く置くところもないので、申し訳ないが衣類や食器はもういい。ボランティアのイベントよりもできたら生活必需品の援助をして欲しい。 すいません。申し訳ありません。と何度も言われる。

Bさん(高齢の女性、独居)
自宅は原発から12km。農業。夫婦、息子夫婦、孫と暮らしていた。開口一番に「原発はもういらない」と言われた。夫(78才)は最初の避難先の千葉の病院で人工透析を拒否して亡くなった。息子夫婦と孫は県外避難している。20km解除になったから農機具が盗難にあった。100万円もするトラクターももっていかれた。息子達と住みたい。農業を再開したい。以前は原発反対した近所の人が村八分にあったから自分も反対だったが言えなかった。もとにもどりたい。今も4号機が危ないと言われていてみんな車のガソリンを満タンにしているけど、自分は、今度もしも原発事故があったとしても、もうどこに避難しない。もういいんだ。

Cさん(高齢の女性、独居
)独居のもの静かなおばあちゃん。家族で住んでいたが子ども達は別のところに避難している。近くに借りた畑で農作業をしている。早く家族と住みたい。

Dさん(女性、独居)
以前は仮設の2DKに家族4人(息子夫婦、孫)で住んでいた。同じ仮設内に息子夫婦と孫(高校生)が移れた。孫が同居の時は料理などすべてにミネラルウオターを使い、お金がかかり大変だった。今は自分だけなので飲み水以外は水道水をつかっている。生活が大変。トイレットペーパー、ティッシュペーパーも分け合っている。ペットも連れてきているのでドッグフードなどの援助もできたらお願いしたい。たばこを吸うので喫煙場所があったら他の人とおしゃべりができるのに、と言われていた。

Eさん(高齢の男性、独居)
2ヶ所(埼玉、鳥取)の避難先から移ってきた。息子達は別のところにいる。奥さんはなくなれている。足が悪く、胃は全摘。食事は3食お弁当。何よりも話し相手がほしい。

Fさん(女性、独居
)つなみで全部流された。はやく市営住宅に移りたい。隣の原町区に住んでいたが、小高区に住んでいた人達の仮設に入れられたから、挨拶程度のつきあいしかできない。パッチワークが趣味だった。パッチワークの先生もどこにいるかわからない。皆でおしゃべりしながらやっていたから楽しかったんだ。今は、ひとりでやってもしょうがない。

【その他言われていたこと】
集会所の集まり(カラオケ、お茶会など)はきまった人しか行かない。気の合わない人がいる。出てこない人の方が多い。
行政はなかなか動いてくれない。もらった衣類は大きいサイズがない。歳をとったらゆったりしたものがいい。

【その他気づいたこと】
◆仮設はかなり不便な場所にある。住宅地のかなりはずれ。
仮設住宅は本当に狭い。1部屋は4畳とのこと。収納できず物があふれていた。
◆作りがものすごく簡単。まさに案内表示の「応急住宅」。◆壁も薄く隣家の生活音がまる聞こえ(トイレの水の音、トイレットペーパーの音までも)◆皆さん、「すいません」、「申し訳ない」と何度も何度も言われる。

【支援してほしい物】
布団、枕、シーツ、バスタオル、タオル、ミネラルウオーター、靴下(ハイソックスも)、洗剤、食品、ドッグフード、キャットフードなど生活必需品

【感想】
素朴で気持ちの優しい人たちだった。何ができるかわからない我々の訪問に集まって下さり、うちとけて現状を話して下さった。「また来ます」と言うと、「泊まりで来て。集会所に泊まれるよ。今日でもいいよ」と言ってくださり、車が見えなくなるまで手を振って見送って下さった。二本松から飯舘村を通り、南相馬に移動しながら本当に美しい土地だと思った。田んぼには黄金色の稲(収穫しても食べられないが)、道ばたにはコスモスと秋の景色。福島原発に近づくにつれ、人が全くいなくなり、何とも言えない寂寥感を感じた。

【追記】
10月1日、前夜に台風が仮設住宅を通過したのでお見舞いの電話をした。「雨風は強かったですが、台風は大丈夫でした。来て下さりありがとう。皆さんを見送った後、みんなで泣いたんですよ。本当にすいません」と言われた。布団のことを聞くと、マットレス、毛布、敷き布団、掛け布団、何でもいいです。みんなで分けます。我が家にもらったお米があるので送っていいか、聞くと「ありがたいです。お米は1kgづつに分けて集会所でわけるんです。」と言われた。

29日にたどったコースと訪問した仮設住宅近辺の放射線量を福島市の広報で見たら、高いところが点在していた。

東京カリタスの家
家族福祉相談室
喜多寿子(町田教会)