福島ブロックミーティング〈CTVC主催〉

 大震災から丸1年が経ってようやく福島県にもベースが立ち上げられました。野田総理が収束宣言などしましたが、福島県の実情はまだ「復興」の入り口にも立っていません。これからです。
 6月1日に「原町ベース」が開所して、4日にこの場で「福島ブロックミーティング」が開催されました。
群馬県高崎教会のご夫婦池田さんが原町ベースの責任者となってくださり、ここに住み込んで活動してくださいます。
ミーティング内容は、被災地視察、原町ベースの活動見学、各地の活動報告と情報共有です。
参加者は、「きらきら星」、いわき教会、「チーム平堂根」(いわき市)、「もみの木」(埼玉教区)、「福島やさい畑」(二本松教会)、「聖公会カフェ」(聖公会東京311ボランティアチーム)、原町教会、などでした。今回松木町教会、白河教会は欠席でした。
元幼稚園をお借りしてベースとしました。
原町ベース内部。卓球所もあります。運動不足と、みなさんとの交流のためにいいですね。
畳敷きの部屋もありますので、もう少し準備が整ったら、ボランティアの方にお泊り頂くことができます。今はまだ、働き手が少ない。
今回集まったメンバーで記念撮影。

ミーティング後、被災地の現状を見て回りました。ここは目の前が海という風光明媚の(はずだった)「在宅介護支援センター・ヨッシーランド」でしたが、今は見る影もありません。
東日本大震災津波に襲われ、36人が死亡、1人が行方不明になりました。
福島民報新聞】より引用
「敷地内には介護老人保健施設訪問看護、在宅介護支援、認知症高齢者グループホームの各施設があった。当時、入所者やデイサービスの利用者は合わせて約140人おり、職員は60人ほどが勤務していた。職員は、車椅子や介護用ベッドに乗せたまま利用者を駐車場に避難させた。大津波警報が出ていることを誰1人知らなかった。火災に備えた避難訓練は何度もしていたが、津波を想定したことはなかった。市が平成20年にまとめたハザードマップでも、津波被害の想定区域に含まれていない。とりあえず5〜600メートル離れたテクノアカデミー浜の体育館に避難することを決め、近くにいた利用者を職員の車に乗せた。道路は他の避難車両で渋滞し始めていた。

大津波警報発令から一時間後、駐車場に残っていた入所棟介護長の大井千加子(50)は海の異変に気付いた。防風林越しに水しぶきが上がった直後、黄緑色の幕のようなものが広がり、一瞬で砕けた。巨大な津波だった。付近の林や鉄塔をなぎ倒し、田畑を洗い流して施設に向かってきた。
 施設にはまだ40〜50人の利用者が残っていた。「走って。津波が来る」。大井は声を張り上げ、一刻も早く利用者を避難させるよう職員に指示すると、自らは高齢の女性を介護用ベッドごと押して懸命に逃げた。施設東側の畑にたどり着いた途端、ベッドの車輪が土に埋まり、前に進めなくなった。振り向くと施設は真っ黒な波にのみ込まれ、見えたのは屋根だけだった。直前まで一緒にいた職員や入所者の姿はなく、駐車場にあった多くの車が海水に浮かんでいた。
 津波は大井の目前に迫った。「つかまれ。流されるぞ」。男性の声が聞こえ、ベッドにしがみついた瞬間、激流に巻き込まれた。すさまじい水圧だったが、懸命にこらえて女性を守った。
 津波が引いた後、施設の周りは泥やがれきに覆われ、多くの人が埋まっていた。「助けて...」。利用者らしき人のうめき声が聞こえた。引き上げようとしても、泥まみれの体は重くて持ち上がらない。男性職員と2人でようやく助け出した。雪が舞い、風は冷たさを増していた。
 「全滅です」。利用者に付き添ってテクノアカデミー浜に移っていた事務長の小林敬一(61)は、駆け付けた女性職員からヨッシーランドが津波に襲われたことを聞いた。女性は目を真っ赤にして泣いていた。「まさか...」。血の気が引いた。全力で500メートルほど離れた施設へ走って向かった。
 到着すると、何台もの車が施設の中に押し流され、クラクションが鳴り続けていた。がれきや泥の中に体の一部が見えた。あまりの惨状に言葉を失った。
 「ここに人が...。生きているぞ」。職員が叫んだ。横転したワゴン車の後部座席に高齢者3人が閉じ込められていた。職員数人で1人ずつ助け出した。しかし、最後に引き上げた高齢者は、もう息をしていなかった。」
あれから1年3ヶ月。嵐の後の静けさが漂っています。亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
 (このあたりのがれきは当時のまま、手つかず状態です。)