後藤寿庵の生涯


 「キリシタンの父」と呼ばれ、また「近代農業の先駆者」とも言われる後藤寿庵(ごとうじゅあん)の生涯について簡単にご紹介します。しかし、その生涯の始めと終わりの部分については、はっきり知られていません。
◆出生と少年時代
 今から約400年前、岩手の中部から南部にかけて葛西という豪族が勢力を振るっていました。後藤寿庵はその豪族の中の一人、現在の東磐井郡藤沢町の城主、岩渕近江守秀信の次男として生まれ、幼名を又五郎と言いました。
 当時は戦国時代。豊臣秀吉の軍勢が葛西氏を亡ぼした時、岩渕氏も共に亡び、少年又五郎は何とかして家名を興そうと志し、旅に出ました。
◆受洗と改名
 諸国を流浪した後、寿庵は長崎に着きました。ここで彼は、当時西洋の進歩した文化や学問を学び、特に土木の研究に精通しました。また、キリスト教を知り、洗礼の恵みを受け、洗礼名をヨハネジョアン)としました。そして、洗礼を受けた五島にちなんで五島寿庵と改名しました。後に後藤寿庵と改名します。
◆寿庵の業績
 その後、東北地方に戻った寿庵は、仙台の大名伊達政宗の家来となり、1612年に1,200石を与えられ、見分の地(現在の水沢市福原)の領主となりました。
 その当時の福原は「砂漠のようだ」と言われるほど、水不足に苦しんでいました。彼は長崎でポルトガル人から学んだ土木技術で、胆沢(いさわ)川から大変な苦労をして水を引く工事をし、胆沢の荒れた原野を岩手県一と呼ばれる豊かな穀倉地帯とする基礎を造りました。
◆寿庵の布教と迫害
 人々の幸せを願っていた寿庵は、キリスト教の教えを広めるために福原にカルワリヨ神父を招き、教会を建てました。積極的な布教の結果、信徒の数は600人以上にも上ったとされています。その教会跡には現在毘沙門堂が建てられています。
 しかし、寿庵は残念なことに、堰の完成を目前にして信仰上の迫害を受けることになりました。徳川家康の「キリシタン禁教令」は家光の時代になって厳しさを増し、東北にも及んできました。領民や友人たちは、彼に棄教を勧めたのですが、彼は常にきっぱりと断りました。キリシタン弾圧が強まる中、寿庵は奥州のキリシタンの筆頭著名人として、ローマ教皇に宛てて教奉答書を送りました。この書状は、教皇サン・ピエトロ大聖堂が落成したことを祝って全世界の教徒に発行した罪障全赦の教書に対する返答書であり、「キリシタン弾圧が厳しくなってきているが、各地の神父や教徒は動揺することなく教えに殉じようとしている」ということが切々とつづられています。
 1623(元和9)年、徳川家光に領内のキリシタン根絶を命じられた政宗から改宗を勧められるが、寿庵はこれを断固拒否。家や名誉を捨て、家臣を連れて自ら追放という茨の道を選びました。南部に逃れたと伝えられていますが、その後の足取りについては分かっていません。
←「寿庵堰」
◆現在
寿庵の功績
 胆沢川から引いた水路は「寿庵堰」と呼ばれ、今も活用しており、大胆沢平野1万haの約半分の水田を福音の水として潤しています。この水路のお陰で4世紀、四季折々、多彩に織りなす扇状地の田園風景を眺め、豊かな農耕文化を営営と育んで来ることができました。
 後藤寿庵の偉大に功績に対して国では1924(大正13)年、従五位を贈り讃えました。また地域の人々は、寿庵の不屈の精神を後世に残そうと1931(昭和6)年、寿庵の居住跡に「寿庵廟堂」を建立 し、毎年、春と秋に豊作を祈り、収穫に感謝する「寿庵祭」を催して大恩人を顕彰しています。