ニューマン、オラトリオ会始める

1.聖フィリポ・ネリのオラトリオ会とニューマン
 ニューマンは聖フィリポ・ネリについて知ると、言わば、聖人に一目ぼれしています。尊敬するキーブルに類似点を見いだして、妹のジェマイマにこのように言っています。「この偉大な聖人はキーブルを彷彿とさせる。聖人は数知れないほどの馬鹿な真似、冗談、いやむしろ奇妙なことをし、その一方、他者への慈しみ深い愛と厳しさを持っている。これはキーブルの特徴と同じだ。」ニューマン自身は、性格も身体も精神も聖フィリポ・ネリとはだいぶ異なりますが、ニューマンは聖フィリポ・ネリとは直ちに守護聖人として支えられる以上のものを共有することになっていきます。
 オラトリオ会に決定する際に、ニューマンは最終的な自己確認のために1847年1月17日から25日まで聖ピエトロ大聖堂でノベナ(特別な意向のための9日間の祈り)をしました。ノベナの最後の二日間は、聖ピエトロ大聖堂の後、聖フィリポ・ネリの本拠地キエザ・ノーヴァでも祈っています。このノベナによって確信を得て、ついにオラトリオ会に決定したのでした。そして数日後には、教皇様へオラトリオ会をイギリスに設立したい旨の手紙をラテン語で書いて送り、間もなくそれは承認されました。その日は奇しくもニューマン46歳の誕生日でした。
 オラトリオ会に決定したことで、ニューマンは自分にもイギリスにも明るい希望を見出して、非常に満足しています。そして、オラトリオ会には誓願がないだけに、会員たちの強い自覚が要求されるのでむしろこれは難しいことだと仲間らに心構えをアドバイスしています。
2.叙階
 1847年5月30日、ニューマンは仲間のセント・ジョンと共にカトリック司祭としてフランソニ枢機卿により叙階されました。叙階から初ミサまでは以下のとおりでした。
5月26日(水)〔聖フィリポ・ネリの祝日〕:副助祭叙階、フランソニ枢機卿の聖堂にて。
5月29日(土)               :助祭叙階、ラテラノ教会にて。
5月30日(日)〔三位一体〕        :司祭叙階、プロパガンダの教会にて。
6月 3日(木)〔キリストの聖体〕     :初ミサ、イエズス会の小聖堂にて。
6月 6日(日)                :ミサ、キエザ・ノーヴァ内の聖フィリポ・ネリのご遺体が安置された小
                       聖堂にて。
6月 7日(月)                :ミサ、バチカンの聖グレゴリウスの大理石彫刻のある祭壇にて。
6月 8日(火)                :ミサ、ジェズ教会の聖イグナチウスの部屋にて。
以後、滞在のイエズス会の小聖堂にて毎日ミサを捧げます。
3.ニューマンのオラトリオ会計画
 その後、6月28日には、プロパガンダ大学を去り、イギリス人のオラトリオ会員のための修練を行うサンタ・クローチェ・エルサレム教会に移り、いよいよオラトリアンとしての養成が始まります。養成指導はニューマンより一歳年少のロッシ神父でした。ロッシ神父はその頃病気がちで、ニューマンは彼の印象を物憂い感じの人だと語っています。
 この時のメンバーは、ニューマン、セント・ジョン、ダルゲーンズ、ペニー、スタントン、ボールズ、コフィン、の計7名です。最初の三人はすでに司祭叙階され、ペニーとスタントンはまもなく叙階予定であり、ボールズとコフィンは11月に叙階予定になっていました。他の転会者の何人かは修道会を選択し、ニューマンとは別の道へ進みました。その一方で、ニューマンのオラトリオ会に関心を示し、志願者が少しずつ現れ始めます。
 この養成期間中の7月12日に、ニューマンはオラトリオ会員としての将来の設計図について、デイヴィッド・ルイスにこのように打診の手紙を書いています。「私たちは、マリーベイルに修練者を集めてそこで組織を形成し、そして、私たちの長所を生かして活発な活動をしようと計画しています。オラトリオ会士は典型的な在俗の司祭ですから、司教様が私たちに期待されたことに従って、私たちの目的は徐々に国中に拡大させるための原型を作ることです。私たちは東部とランカシャー州地区からすぐに緊急の招待を受けました。しかし、今はまだ私たちはそれに応える準備ができていません。オラトリオ会士は一様に典礼と聴罪においては優れていますが、それに加えて修練者と学生のための神学教授を採用しなければなりません。...あなたに教会法の教授としてマリーベイルに来て頂きたいのです。」と、養成期間中にもかかわらず、イギリスでのオラトリオ会設立の準備を同時進行で始めているのです。そもそも彼は、ローマに来た第一の目的は神のみ旨と自分たちの召命を見つめるためであり、プロパガンダ大学に来たのは、自分たち自身と母国にとって何が良いかを考えるためであり、その具体的な答えが見つかったのですから、早々に着手するのは彼にとって当然だったのです。
 ニューマンはイギリスにオラトリオ会を設立するに当たって、会則の草案を1846年12月からすでに練り始めていました。その草案は聖フィリポ・ネリの会憲に則りながらも、イギリス・オラトリオ会として独自のものを構築していこうとするものでした。