ニューマン、研究家の見解

1.オラトリオ会を選択したことに対する研究家の見解
 ニューマンのオラトリオ会を選択した理由について、積極的というより、他に道がなかったためという消極的な理由によるという見解を示すニューマン研究家もいます。その見解の根拠は、ニューマンが修道会の厳しい規則の前に足踏みをしていたことにあります。最終決定に至るまで、彼はどうしても既存の修道会でやっていくことはできない自分を確認しながら苦渋の決定をした姿がそう思わせているのかも知れません。
 しかし、46歳まで築いてきた自分の業績を捨てることができない、46歳にして生き方の全てを新しく変えてやり直すことはできない、というそれまでの人生経験ゆえの問題を抱えたニューマンにとって、修道会ではなく三誓願のないオラトリオ会という共同生活の会こそが最適の会であったと言えます。彼は最初から修道会に入るつもりはなかったと言っても過言ではないかもしれません。確かに若い時代には修道会への憧れを持っていましたから、もっと若ければ考慮したでしょうが、46歳になっている自分にはもうそうした望みは実現できないことを彼は重々承知していたのです。言ってみれば、彼は若き仲間のために、わずかの可能性でも見出すことを念頭において修道会を模索してみたのでした。
 彼のその頃の深刻な苦悩は、転会の傷も癒されないまま司祭叙階を迎えようとしている時の黙想ノートに綴られています。
 ニューマンはカトリックになった時、実は司祭になることは考えていませんでした。一信徒として世俗的な仕事につくことも考えていました。それについてプラチド・マレイはこのように推測しています。「英国教会の司祭を辞任したのに、カトリックになって司祭になりたいと望むことは不謹慎であると考えた。つまり、英国教会で彼は正式な司祭だったのであるから、カトリックにおいてもう一度叙階の秘跡を受けることは秘跡に対する冒涜のように感じていたのではないか」ということです。
 そういうニューマンに対して司祭になることを勧めたのはワイズマン司教でした。この時、ワイズマン司教は、ニューマンが自分の口からそれを言い出すにはあまりに控え目な性質を持った人であると見ています。
 ニューマンは人前では気丈に振舞うことのできる人でしたが、人知れない胸中では不安が渦巻いていました。46歳にして規律の厳しい修道会で新生活を始めることは彼自身認めているように、無理なことだったのです。それでも奉献生活への望みを持つニューマンにとってはオラトリオ会こそが最適な会であったと言えます。なお、ワイズマンはニューマンの最終決定には直接は関わっていません。ニューマンはイタリア滞在中にオラトリオ会の可能性を模索し始め、そして決定したからです。しかし、ニューマンの探し求めている答えはオラトリオ会の中にあるだろうと提案したワイズマンには先見の明があったと言えます。
 研究家のプラチド・マレイは、オラトリオ会に決めたのは聖フィリポ・ネリに惹かれたからという訳ではなく、最後の手段だったと考えるべきである、と言っています。決定時点でそうであったとしても、聖フィリポ・ネリの精神とニューマンの精神とは時代と文化を超えて共通点が多く、また、ニューマンは生涯をオラトリオ会員としてまっとうしていますから、自分を偽ることを知らぬニューマンにとって彼の召命はやはりそこにあったと言えるでしょう。
 「司祭叙階前の黙想ノート」は少し長いですが、彼の真の思いを知る手がかりになると思われますので、次回全文紹介します。

【転会者の再叙階】
カトリック教会に帰正した英国教会の聖職者には、無条件の再叙階が要求されています。英国教会では、1559年からエドワード6世の『叙階要文』が聖職階級叙階の決定版として使用されていましたが、それはローマ教会の儀式(特に聖体の祭儀のおいて)に反し、教会が行おうとすることを行う意向が欠けるようになり、最後には形相さえも欠けるようになりました。このような事情から、ローマではすでに、英国教会の叙階が無効であることを判定しています。(DS3315−DS3319参照)