ニューマン、修道会探し

1.修道会を探す
 カトリックとなって以来、ニューマンは神学上の迷いが払拭され、その点に関しては心の平安を得ています。
 カトリックになってからは、もちろんもはやこれ以上語るべき宗教上の意見はなかった。このことは、私の精神が怠惰になった訳でも、神学的議題について考えることをやめてしまった訳でもなく、記録するほどの変化がないということであり、また、心に心配もなく、私は完全な平和と満足を感じており、一つの疑念もなかったのである。(Newman, J.H. Apologia pro vita sua.p.238)
 次の課題は、カトリックの中でどのような身分をとって生きていくかということです。ニューマンは修道生活を考え、修道会を探し始めます。自分のためだけでなく、彼について来た若者たちのことも考慮しなければなりませんでした。ワイズマン司教は「オラトリオ会」を勧めますが、この時点において、ニューマンは眼中にありませんでした。むしろ、ダルゲーンズはドミニコ会、セント・ジョンはイエズス会に関心があるなど、若者たちが修道会に対する望みが強いことから、ニューマンは彼らのためにも修道会を考えたのでした。「オラトリオ会」は修道会ではなく、在俗の司祭たちの共同体で、現在の教会法では「使徒的生活の会」に分類された会です。
 彼は伝統ある修道会を調べ始めます。彼が道を決定する方法は、「理性」に従うことであることを前にも述べましたが、1848年発表の改宗体験小説『損と得(”Loss and Gain”)』の中でも、「prudence(思慮分別)が真理に到達するための神によって備えられた方法である」と述べており、思想においてだけでなく、実際の生活の中においても道を決定する方法は理性であるとし、彼は得心のいくまで各修道会を調べ上げています。
 ニューマンが既存の修道会にこだわった理由は、それがカトリック教会における「伝統」だからです。カトリックになった以上、その伝統の枠内に組み入れられることが重要なのです。カトリック内に転会者のための孤立した新しい集団を作ることは絶対に避けなければならないと考えていました。
 ドミニコ会について、最初からニューマンは合わないと考えていましたが、ダルゲーンズがしきりに勧めています。しかし、1846年12月31日の彼宛の手紙で、はっきりと好きではないことを伝えています。ドミニコ会は知的な会であるが、専門的過ぎ、非現実的、閉鎖的、聖アルフォンソ・リゴリオの柔軟な倫理神学に反対し過ぎている、などを理由としています。ニューマンは自分たちの方向性は、聖母マリアへの信心を持って、家族的で、単純で、堅苦しくなく、親しみやすいことを挙げています。
 イエズス会については、彼は英国教会時代にすでに『霊操』の経験があり、イエズス会の宣教活動に関しても賞賛しています。また、彼自身、神学校を作りたいという望みを強く持っていたことからも、オクスフォードの一流人と同等の知的レベルを持つイエズス会には一目おいてはいましたが、最終的にオラトリオ会を選んだことから振り返って見ると両者は対照的な会であり、彼は決してイエズス会が自分に合うとは見なしていなかったようです。彼は後にイエズス会ギリシャの重装密集軍にたとえ、オラトリオ会をローマの兵士にたとえています。つまり、前者は団結し密着した体制順応主義であり、後者は自由な空間を持って戦う対抗手段を持っている、と捉えています。
 ラザリスト会にも惹かれますが、神学や学問の点が弱いことを難点としました。レデンプトール会も宣教が主な使徒職ですが「研究」がないため、入会の対象としては考えませんでした。ワイズマン司教もレデンプトール会は賛成しないだろうと彼は感じていました。ベネディクト会については、修道会として古い歴史があるだけに「ベネディクト会の使命」とか「ベネディクト会の世紀」など歴史として研究はしていますが、入会の対象としては見ていなかったようです。現在のベネディクト会大修道院長のバトラーは、当時のイギリスのベネディクト会はオクスフォード運動とは路線の異なる会であり、転会者を理解し受け入れる体制にはなかったと言っています。
 教区司祭の道も考えてみますが、ロンドンでの活動も望むニューマンやセント・ジョンにとっては、活動の教区が限られる教区司祭の身分をよしとしませんでした。
こうして各修道会をつぶさに比較検討していきますが、いずれも入会を決心するには至りませんでした。
2.オラトリオ会

「キエザ・ノーヴァ(新しい教会)」内に納められている聖フィリポ・ネリのご遺体(手前)とそのご絵(ローマ)
 そこで、最初は気乗りしなかったオラトリオ会が彼の中に浮上してきました。1月中旬、ニューマンはダルゲーンズに「オラトリオ会とはどんな会なのか調べてみよう。あまり聞いたことがないが、彼らは良い聴罪司祭だということだ」と手紙を書いています。そして、聖フィリポ・ネリの本拠地であるキエザ・ノーヴァ(新しい教会)を訪れると好印象を持ちました。彼の着眼点は図書館でした。良い図書館だと満足しています。部屋の調度品なども気に入りました。そして、財産を自分で所有し、自分の部屋の家具を自分で備え付けるなど、大学のようだと感想を漏らしています。それ以降、オラトリオ会についての調査を開始し、そしてついに、オラトリオ会への入会を決心したのでした。
 ニューマンは1847年3月31日のフェイバー宛の手紙で、「私たちは最終的に聖フィリポ・ネリに奉献することを決心しました」と書いています。 
 ニューマンとセント・ジョンは、ワイズマン司教によって司祭養成のために1846年10月、ローマのプロパガンダ大学に送られますが、ローマに来たばかりの頃、ニューマンはイギリスに教区司祭のための神学校を設立することを第一に考えていたのです。プロパガンダ大学ではイエズス会士から指導を受けることになったため、彼はイエズス会に入会を希望したが断られたとある季刊誌(“Quarterly Review”)に書かれたりもしましたが、彼はそれを驚きを持って否定しています。確かに、神学校設立することを考えると、その知的レベルの高さからイエズス会はいかにも最適に思えてイエズス会に入るべきなのかと自問しますが、結局は、イエズス会士を尊敬はするが惹かれはしないと結論を下しています。そしてその時、「おお、そうだ!私は聖フィリポ・ネリのことを忘れていた」とオラトリオ会を思い出して、注意はそこへ向くのです。そしてオラトリオ会に自分の召命があるかどうかの識別をイエズス会の聴罪司祭の指導のもとで行なっています。その結果、ワイズマン司教に宛てて、「いろいろと熟考しました結果、司教様がお勧めになったオラトリオ会以外に私たちに相応しい会はないと感じるようになってきました」と報告しています。
 ワイズマンはオラトリオ会が特にイギリスの状態に適すると判断し、彼はイギリスにオラトリオ会が設立されることを望んでいたのです。一方、ニューマンの心にはある使命がありました。32歳の時の南欧旅行の際にシチリアを訪れてチフスに罹り生死をさ迷った時に、周囲では彼の死を覚悟するような病状でしたが、彼自身は「神は私にイギリスのために働くことを望んでおられる」とその時、自分の使命に開眼して生還し、爾来、彼にとってそれは懸案となっていたのでした。オラトリオ会こそはそれが実現できる会であると気づいたのです。ニューマン率いる若者たちがイギリスに貢献のできる活動をするためには、修道会よりも自由に活動ができるオラトリオ会が最適です。「もし修道会に入会することになれば財産を放棄しなければなりませんが、それは非常に難しいことです。在俗に留まれば、財産復帰権を持つことができ、私たちの誰もがやがて独立することができます。」と仲間のダルゲーンズ宛の手紙に書いています。ニューマンにとっての財産とは物品のことではなく、知的財産、すなわち、書籍やら自らの著作など今まで知的に積み上げてきた業績などのことを指しています。オクスフォード仲間で構成されるニューマンの共同体の面々のイギリスでの今後の活躍に望みをかけるならば、学究の自由が保証されている方がよいので、制約の多い修道会よりも、もっと自由に活動ができるオラトリオ会こそが彼らにとっても相応しいという最終判断となったのは、当然だったからも知れません。