ニューマン、転会


御受難会のバルベリ師にカトリック入会を乞うニューマンのレリーフリトルモア

福者バルベリ師のご絵(ニューマン・コレッジの聖堂、リトルモア
1.胸のうち
 
 ニューマンのカトリックへの転会の決心は並々ならぬものでした。それは彼の信仰生活にとっての死活問題となるからです。20年間も英国教会司祭として尊敬を集めていたエリート司祭が、それまでの地位を捨て、また全ての人間関係を断ち切ることになることを覚悟したのであり、しかも44歳という人生のピークに再出発の決心をしたのは、彼にとってそうせざるを得ない強い内的促しがあったからとは言え、ただならぬ決意でした。その時の心境を友人宛の手紙でこのように綴っています。
 「私が転会を考えたただ一つの最大の理由は、私たちの教会が分離しており、私の救いはローマ教会に加わることにかかっているという深い不変の確信でした。...今、私には希望に満ちた未来像も、行動計画も何もないのです。...どれほど多くのことを諦めなければならないでしょうか。人が変化を嫌う年齢に私が達していることだけでなく、古い付き合いへの特別な愛情や思い出という楽しみをとっても、私は取り返しのつかない犠牲を払うことになるのです。私にはこの犠牲を喜ぶような熱狂的、英雄的な気持ちなどありません。ここで私を支えてくれるものは何もないのです。...」
(Newman, J.H. Apologia pro vita sua.p.229)

 さらに、自分の行為の責任の重さの苦しさを年若い彼の友人、リチャード・チャーチに宛ててこのように打ち明けています。
 「私はオクスフォードを去ることを悔いる気持ちはこれっぽちもありませんでした。後悔は全くなかったのです。どうしてそんなことがあり得ましょうか。どうして私が聖マリア教会に留まっていることができましょうか。偽善者ではありませんか。どうして私が抱いていた確信とか少なくとも信念の故に人々(そして不確かな人生)に対して責任をもつことができましょうか。実際、私がしようとしている行動は重い責任を伴います。私は、全能であり愛である主の手が休みなく重くのしかかってくるのを感じています。それ故に、私は手足が背中の重荷のために疲れるように、私の精神も心も疲れ果てているのです。そのような鈍い疼くような痛みを感じています。しかし、私の責任は実に、英国教会に信頼し愛している人々に対して確信を持って応えるべき責任とは比べものにならないほどのものなのです。」
(Newman, J.H. Apologia pro vita sua.p.416-417.)


2.転会

 そしていよいよ、ローマ・カトリック教会に入りたいと思うのですが、今までカトリック教会と接触したことのなかったニューマンはその術を知らなかったのです。一人の人間が同時に二つの教会に属することは、彼の誠実さが許しませんでした。彼は実に英国教会員である間に、カトリック教会に足を踏み入れたことがなかったのです。
 ニューマンは1845年10月9日、御受難修道会のドミニク・バルベリ神父 によってついにカトリックに受け入れられることになりますが、その経緯はこうでした。
 リトルモアの27歳のダルゲーンズという若い仲間がバルベリ神父と交流も持っており、1844年6月にバルベリ神父がダルゲーンズを訪ねてきた時にはニューマンに初めて会い、二人は30分ほど様々な神学的な話題で対談し、互いに深い印象を持ちました。
 ダルゲーンズはその後もバルベリ神父とコンタクトを取り続けていましたが、翌年の9月、彼は自身のカトリックへの転会依頼の手紙をバルベリ神父に書き、するとすぐに返事が来て、バルベリ師はイギリスでは最初の御受難修道会をストーンに設立していましたが、そこへ招かれ、三大天使の祝日(9月29日)に晴れてカトリックになりました。ダルゲーンズより三歳年長のセント・ジョンもまたクライスト・チャーチを辞め、バースの近くのプライア・パークで守護の天使の祝日(10月2日)にカトリックとなっています。
 ダルゲーンズはバルベリ神父がベルギーに行く計画があることを知ると、その途中でリトルモアに立ち寄ってくれるようお願いをしました。ダルゲーンズはバルベリ神父と10月8日午後3時に乗合馬車駅で会うことになっていました。ニューマンは迎えに行こうとするダルゲーンズに、非常に低い静かな声でこのように言ったのです。
「あなたの神父に会ったら、私をキリストの教会へ受け入れてくれるよう頼んで下さいませんか」と。その日のことを妹のジェマイマに「あなたに大きな痛みを与えることになるので簡単に言いますが、今晩、御受難修道会のドミニク神父が泊まります。彼は私の意図を知りませんが、私は私が信じる救い主の教会の一員に加えて頂くようにお願いするつもりです。」と手紙に書いています。
 バルベリ神父が馬車から降りてきた時に、ダルゲーンズはニューマンの意思を伝えると、神父は「神に賛美」と言ったそうです。その日はどしゃぶりの雨のため馬車は遅れ、夜11時ごろにリトルモアに到着した時にはバルベリ神父もずぶぬれでした。濡れた身体を火のそばで温めていると、ニューマンがドアを開けて入るなり神父の足元に跪いて、「告解を聞いて下さい、そしてカトリック教会の中へ入れてください」と乞うたのでした。そして非常な謙遜と敬虔さをもって総告解を始めました。総告解はその日だけでは終わらず、翌日も続けられました。翌日はニューマンが終わると、リチャード・スタントンとフレデリック・ボールズも告解しました。
 その日の様子をバルベリ神父は、「その日の夕方6時に、彼らの小聖堂で通常の形式で次々と信仰告白をしたが、そのあまりの熱心さと敬虔さに私は喜びで自分を失いそうになった。」と記しています。
 そうして神父は彼らに「条件付きの洗礼」を授けたのでした。10日の朝、バルベリ神父は小さな聖堂でミサを捧げ、全員聖体拝領をしました。その時、セント・ジョン、ダルゲーンズ、ボールズ、スタントンがニューマンと一緒でした。バルベリ神父はミサの後、旅立っていきました。
 互いについて、バルベリ神父は「ニューマンは、私の生涯の中で会った人々の中で最も謙遜で魅力的な人の一人です」と長上に印象を記し、ニューマンもまた「全ての人がバルベリ神父のように慈悲深かかったらと思います。私は彼は非常に聖なる人であると信じています」とボーデン夫人宛の手紙の中で言っています。

【ドミニク・バルベリ師】Blessed Dominic Barberi 1792-1849。御受難修道会司祭。「イギリスの使徒」として知られる。イタリアの貧しい農家に11人兄弟の末っ子として生まれ、8歳で孤児となり、おじおばに育てられる。22歳で御受難修道会に入会。優秀な成績で哲学・神学を修め、1821年(29歳)叙階後、約10年間修道会で哲学と神学を教える。その間、イギリス人の訪問者からイギリスの宗教事情を聞かされ、イギリスに彼らの回心のために行きたいという望みを持つ。1840年、ベルギーに会を設立後、1842年念願かなってイギリスに会を設立する。1963年福者となる。
【条件付き洗礼】
プロテスタントで受けた洗礼に疑念がある場合、「もし前の洗礼が有効なら、この洗礼は無効となり、前の洗礼が無効ならこの洗礼が有効となる」という条件の下に行なわれるカトリックの洗礼のこと。