復活節第5主日(板垣神父様の説教)

 今日は首都圏販売をスタッフに任せ、私は久々に自分の教会のミサに与ることができました。4月から板垣勤神父様が二本松教会の主任司祭となられ、私にとっては2回目のお説教を伺うことができました。
 とてもよいお説教でした。忘れかけていた信仰の原点を思い出せてくださいました。その恵みを皆様にも分かち合いたいと思います。

復活節第5主日 (ヨハネ13.31-33a,34-35) 
 「互いに愛し合いなさい」。今日の福音は、信者でない方々にもよく知られた、キリスト教の神髄とも言える言葉です。
 しかし、福音にはすんなりと受け入れられない部分があります。「ユダが晩餐の広間から出て行った」という記述です。この後すぐにイエスは言います「今や、人の子は栄光を受けた」。これはどういう意味なのでしょうか。私たちはこの言葉をすんなりと理解できるでしょうか。ここでいう「栄光」とは何を意味しているのでしょうか。一般的にはスポーツの世界などでよくこの言葉が使われていますが、その使われ方とイエスの言うこの「栄光」とはどこがかみ合っていて、どこがかみ合っていない部分なのか考えてみましょう。また、聖書で語られる「栄光」というとご変容の場面で、イエスの衣が光り輝いた、が思い出されますが、その時の栄光と、今日の福音の語る栄光とは意味が異なっています。
 ユダが裏切る、弟子たちが逃げる、そうした場面で何が「栄光」なのか、イエスが私たちに示してくださった栄光とは何なのでしょうか。
 エスの十字架の姿...イエスが神様の愛を私たちに示すためにさなったことは十字架につけられる、ということでした。
 ユダがイエスを見捨てる、裏切るということがなければ十字架へとつながりません。十字架の始まりの出来事がユダの裏切りです。
 十字架の苦しみは、釘を打たれるとか、鞭打たれるなどの肉体的なものばかりでなく、人間が行っていること、すなわち、ユダが裏切っただけでなく、ヨハネ以外の10人の弟子たちも十字架から逃げたこと、ペトロに至っては、3回もイエスを知らないと否定したことなど、イエスとの霊的なつながりを断ち切ったことです。
 私たちも、神様とのつながり、ということを考えるならば、2千年前のイエスを裏切った人々と同じです。
 そのような私たちに対して、イエスは「互いに愛し合いなさい」と言います。愛とは自分にとって好ましい相手との間にあることを指すだけではありません。愛とは「ゆるす」ことを含んでいます。人間には好きな人といやな人がいます。人には「ゆるさなければならない」あるいは「ゆるしてもらわなければならない」ことがあります。
 今日の福音の34節には「互いに愛し合いなさい」という言葉の間に「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が挟まれています。誰も人は自分を愛してくれないと思ったとしても、神様はあなたを愛しておられるのです。一歩踏み出しなさい。
 エスの言葉は、私たちにお手本を示して下さっている以上のことです。その上で「互いに愛し合いなさい」と言っておられるのです。私たちの心がかたくなであることを知った上で、イエスは「互いに愛し合うように」願っておられるのです。
 それができるならば、私たちも神の栄光を表すことになります。私たちのこの体を通して、神だけのものである栄光を表すことができるのです。
 いつかそういう人になりたいという希望を持ちましょう。自分だけがそうなればいいのではなく、自分と共に他の人々も神の栄光を表す者となれるように互いに励まし合い、祈り合いましょう。