ニューマン、転会後の道


ワイズマン司教 http://www.newmanreader.org/biography/pictures/wiseman.htmlより
1.堅信を受ける
 1845年10月9日にカトリック教会に受け入れられたニューマンは、その日の前後に家族や友人らに約30通もの手紙を書いています。そして、リトルモアを去るべきか留まるべきか、身の処仕方についてもしばらく迷っていました。カトリックとしてここに留まっているのも何を言われるか分からないから地獄、20年近く関わってきた思い出と愛情が詰ったここを去るも地獄といった心境でした。しかし、彼の信仰心は人間的感情を超克します。行き先も決まっていないのに転会に踏み込んだことは、行き先を知らないまま神の声に従って旅立つアブラハムのようでした。
 バルベル神父が、リトルモアの転会者たちを再び訪問した時に、彼らにオスコットへ行って、ワイズマン司教から堅信を受けるように手筈を整えてくれました。バーミンガム郊外にあるオスコットはカトリックの宣教本部でしたが、1783年からカレッジとなり、ワイズマン司教は1840-1847年までそこの学寮長を務めていました。
 「諸聖人の祝日」(11月1日)に彼らはオスコットのワイズマン司教を訪問し、堅信を受けました。ニューマンは「マリア」を堅信名としていますが、彼は英国教会時代から、「聖母マリアに捧げるべき崇敬」と題して説教するなど、カトリックになってからももちろん、生涯、聖母マリアには特別な崇敬を抱いていたことが伺えます。
 またこの時、オスコットから帰る時に、ニューマンは転会の決心を固めた頃に書き始めた『キリスト教教義発展論』を、ワイズマン司教へ提出することを約束しています。それを読了したワイズマンがそのまま出版するよう推薦したことに勇気を得て、ニューマンはこれを自分の責任において出版することにしたのです。こうした数日間の出会いがワイズマン司教にもニューマンについて深い印象を与えることになりました。彼はラッセル博士に「これまで教会は、ニューマンほどの従順で単純な信仰を持った転会者を受け入れたことはなかったでしょう」と手紙を書いています。
2.リトルモアを去る
 行き先の決まっていないニューマンに助け舟を出したのは、ワイズマン司教でした。ニューマンほどの人物が放っておかれるはずもなかったのです。
 ワイズマン司教は彼らにまず、ニューマンと一緒にいる若者のことも考慮して、自分の本拠地であるオールド・スコット・コレッジに来ることを提案しました。ここなら、彼らがリトルモアでの生活形態をそのまま継続でき、司祭職につくための勉学もできます。さらに、ニューマンの若者に対する立場もそのまま継続することができます。ニューマンは実は他のカトリック大学などからも誘いを受けていたのですが、彼はワイズマン司教の申し出を受け入れることにしたのでした。数回の下見の訪問をした後、1846年2月、いよいよ、リトルモアを去ることになりました。その時の心境を友人たちに宛ててこのように綴っています。

 1846年1月20日。私がどんなに寂しく感じているかお分かりでしょう。『あなたの民とあなたの父の家とを忘れよ』(詩編45:11)と言う言葉が、この12時間の間、私の耳に鳴り響いていました。私がリトルモアを去ろうとしていること、そして、それが大海原に乗り出すようなことであることが、いよいよ現実味を帯びてきました。
 私は一人でこの田舎家にやって来て、また、たった一人で立ち去るのです。(H.W.宛)
 ここでは何と幸せだったことでしょうか。ここは私にとって今まで生きてきた中で、唯一、良心の咎めなく回想することができる場所です。(フルード夫人宛)
 私は胸が引き裂かれる思いです。ベッドやマントルピースなど、家の中のあらゆるものに口づけをせずにはいられません。私は不安な状態であったとしても、ここにいる時が一番幸せでした。ここは、私が自分の道を教えられ、自分の祈りに対して答えが与えられた場所なのです。(コープランド副牧師宛)

 セント・ジョンやスタントンらはすでに先にスコットへ旅立ち、ダルゲーンズも10月末にはフランスに向けて出発しており、ニューマンは一人リトルモアに残り、この家を初めて入手した日と同じようにたった一人で2月21、22日をこの家で過ごしました。2月21日は彼の45歳の誕生日でした。22日の日曜日の朝には聖クレメンス教会のミサに行き、その晩には天文台の友人ジョンソンの所で夕食を共にしました。そこに、友人らが別れの挨拶に来てくれました。また、大学時代の個人指導教員だったオーグル博士を訪問しますが、博士に別れの挨拶をするということは、ニューマンが少年時代より過ごしてきたオクスフォードと、彼が愛していたトリニティー学寮とそこで親切にしてくれた人々に別れを告げるということを意味していました。新入生の部屋の向かい壁には金魚草がたくさん生えており、それを彼はずっと死ぬまで大学に永久に住み続ける象徴として見ていたのでしたが...。
 1846年2月23日の朝、ニューマンは天文台から旅立ちます。彼が再びオクスフォードの地に足を踏み入れるのは、1878年2月26日、実に77歳になった32年後のことでした。
 オスコットは当時のイギリスにおいてカトリックの名所とも言うべき存在でした。イギリスのカトリックはその当時、他国のカトリックに比して考え方が硬くて古く、信仰に対して秘密主義的な面もあり、近代的なカトリックとはかけ離れていましたが、ローマに長く暮らしていたワイズマンが新しい風をイギリスのカトリックに吹き込んだのでした。彼がニューマンに目をかけたのも、イギリスにおけるカトリックに発展をもたらしてくれる可能性を彼に見出したためと考えられます。